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読書

2010年5月30日 (日)

科学との不適切な関係?

 私は日々科学と付き合っている。大学は農学部出身、農学系の大学院を出て19年ほど農学系の研究所で研究者として働いているので、科学と付き合っている自覚のあまりない方々から見れば私は科学の「中の人」ということになるでしょう。しかし、正直なところ、いまだに「科学との正しい付き合い方」が良くわからずに、日々おろおろしています。長いお付き合いになるのに程良い距離感というのは、いまだになかなか難しいのですが、どう難しいのか、なぜ難しいのかを追々書きます。それは科学を飯の種にしてしまった故の難しさでもあります。

 さて、表題の「科学との正しい付き合い方」ですが、ちょっと言い方を変えてみると「私と科学との適切な関係」という言い方が出来るかもれません。一方に「私と科学との適切な関係」があれば、他方には「私と科学との不適切な関係」があるのでしょう。「不適切な関係」と聞くと、私はなんとなくドキドキしてしまうのだけれど・・・。

ちょっとした違和感

 冗談はさておき、内田真理香さんの著書「科学との正しい付き合い方 -疑うことからはじめよう-」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読み終えたところ。この本は、科学の専門家ではない人に向けて -おそらくは科学を自分とは縁遠いものと感じている人たちに向けて?- 書かれています。そして、この本の中級編で示される科学的な考え方とは、

  1. 答えが出せないことはペンディングする (p.112)
  2. 「わからない」と潔く認める (p.124)
  3. 人に聞くのを恥ずかしいと思わない (p.128)
  4. 失敗から学ぶ (p.131)

である、と簡潔にまとめています。

 たしかに。物事に取り組む姿勢としては妥当だと思います。でも、これは「科学的な考え方」というよりは、どちらかといえば「行動のルール」、あるいは「振る舞い方」です。これは調査した事実に基づいていない個人的な印象に過ぎませんが、もし科学者に向けて科学的な考え方とはどういうものかを質問すると、おそらく科学的方法か、でなければ演繹法・帰納法といった科学における推論の方法についての答えが返ってくるのではないでしょうか。そういう意味では、職業的科学者が日頃考える科学的なものの考え方と、内田さんの提案される科学的なものの考え方の間には若干の開きがあるように思います。

 ちなみに私の場合は、科学に取り組む際の行動のルールとしては、

  1. 仕事にかかる前に、解っていること、まだ解らないことをできるだけ整理する。(無制限に時間があるわけではないので、手早く入手できる範囲ですませる。問題の領域を特定する上で、どうしても必要)
  2. 仕入れた知識を鵜呑みにしない。自分の言葉で説明できるかどうか良く吟味する。 (きちんと説明できない間は、その知識は消化できていない)
  3. 常に複数の可能性を平衡して考えておく。 (研究が進むほど諸説紛々、統一見解無し、という領域に入っていく。)

というのを原則としています。判断できないものはペンディングする。そこは一緒ですが、どんな風にペンディングするのかに、それなりの流儀があります。というのも、判断を留保して宙づりにしておくのは結構疲れるので、宙づりの案件が多くなると”とりあえずどういう見方ができるか”を自分なりに整理して、頭の中の置き場所に仮置きしておく- 好き嫌いは別として、今のところこの考え方が無理がない -というふうに、”置き場所”を用意してからペンディングします。なんだか抽象的ですが、何かを”理解した”という気になる時には、常に”とりあえず、今のところはそう理解できる”という前提を忘れないという姿勢が肝心です。難しい言い方をすると、科学的な仮説が”教条”にならないために反証可能性を確保するということです。

 そういう意味では、内田さんの言う「疑う心」は科学の大前提というよりは、それが「科学的な考え方」そのものであるように思います。

ところで、その「科学」-science-って何?

 実は、「科学との正しい付き合い方」では、お付き合いする相手であるところの「科学」とは何なのかが提示されていません。わざとそうしたのかな?とも思うのですが、この本では「科学」の枠組みを示さないことによって、「科学」という言葉で色々な”こと”を指し示しています。

  • 初級編では、学校で教えられる理科(あるいは理科教育)を指して、科学という
  • 中級編では、科学技術基本法を引用して、国における行政的な文脈での科学技術を指して、科学という
  • 上級編では、人の営みとしてあるいは社会的活動としての科学技術を指して、科学という

ステップごとに「科学」の枠組みが大きくなっている様ですので、この本ではあえて「科学とは何者か」をことばで縛ることを避けて、作品世界の中で読者を引っぱっていくうちに、おのずと「科学」というものの様々な切り口を概観させてしまおうという意図があるのかもしれません。私のような科学の中の人からみると、一つの用語が多義的に使われている文章は若干気持ちが悪いのですけれども、その企てが上手くいくと良いですね。

 私が思うところ、人間の社会活動としての科学は、時代や国(文化圏?)によって担い手も、流儀も、経済的なあり方(主にスポンサー)も大きく違います。19世紀、チャールズ・ダーウインが「種の起源」の発想をえた5年間にわたるビーグル号の航海は、大英帝国の公費負担(一方、ウォレスは自腹)だったようですが、だからといって「その研究が国民生活の向上の役に立つのか」とは問われなかった様です。うらやましいほどおおらかな時代です。

 昨今は、事業仕分けなる一種の行政レビューで、スパコンの能力が世界一でなければいけないのか、二番目ではどうしていけないのか、という政治家の質問が取りざたされました。この質問も市民の感覚では尤もな話だとか、逆に科学者から言わせればマスコミがきちんと伝えないのがいけないだとか、様々な議論がなされました。その後ノーベル賞・フィールズ賞受賞者を集めた決起集会?が開かれ、その様子はこのエントリーで扱っている内田さんの著書でも次のように扱われています。

 そのとき、ある新聞社から以下のような質問が出ました。

「科学技術の大切さは誰しも理解していると思う。しかし、国民の素朴な疑問として、スパコンになぜ多額のお金がかかるのか?というものがある。これをどう説明しようと思うか?」

 それに対し、あるノーベル賞受賞者が「まず1つは、マスコミにもっとしっかりしてもらいたい」「メディアの力は大きい。メディアがもっと科学技術を理解しないと、国民には伝わらない」と。

 すると、会場で拍手が起こり、Twitterでの書き込みも「○○新聞社の記者 の質問に対する良い切り返しだ」という意見をはじめとして、賛同の嵐が・・・・・・。

 それだけならまだしも、「これは科学者の決起集会です!」 「科学者集団、蜂起!」などという熱い投稿まで。

 私は、twitterに次々と書き込まれるこの文字列を見て、背筋が寒くなるのを覚えました。

 その熱狂している様子が、まるで「科学教の狂信者集団」に見えたのです。 

(略)

 私は、そのノーベル賞受賞者が、「国民がスパコンの重要性をわからないのはマスコミが悪いせいだ。勉強不足だ」と言うのにはまったく納得がいきません。

 スパコンの予算の出所はどこでしょう?言うまでもなく税金です。科学に対する予算が削減されるからといって、ただ「お金をよこさないあなた方の理解力が足りない」「勉強不足だ」と叫んだところで、国民は納得するでしょうか。

 私の目から見ると、この風景は相当に違って見えました。政治家も集会に集まった科学者も、メディアもどっちもどっちという感じで、次のような議論のポイントがまったく欠落しているように思えました。

  1. まずスパコンの性能や予算については、前政権下で数年にわたって政策的、技術的な観点から必要な性能が論議されてきた。普通、コンピュータや実験機器の設計性能というか、仕様を決めてからそれにかかる予算を積算して予算要求をする。(審議会等の議事録があるでしょう?)
  2. 基本的に、政権が変わったということが、スパコンの必要とする性能を引き下げる根拠にはならないので、予算を減額する理由はない(それをいきなり素人同士の議論で必要性やコストの話を決着させるのは無理)。
  3. スパコン等装置の性能は、絶対性能を示す指標で議論されるべき(スパコンであれば様々な利用側面での計算速度)。実は、条件さえ整っていれば世界二位でも何ら問題ない。要は当初想定した設計性能が実現できれば良いので、いずれ寿命を迎える地球シミュレーターに代替して、日本の科学界の必要とする計算機環境を提供できるはず。一位とか二位という相対的な順位は技術的にはまったく無意味(・・・ではあるが、どういう訳か役所は世界初とか世界一が好き)。

 事業仕分けで積極的に発言していたのは、装置の仕様にコメントするべき計算機科学の専門家ではありませんし、そのあとの決起集会に集まった科学者はスパコンのユーザーあるいは潜在的ユーザーであって、やはり装置の絶対性能にコメントできる立場にない人達でした(というか、専門分野の外のことには責任を持って議論する能力がない)。ましてや”どうして二番では”・・・と空疎な議論を報じていたマスコミは、問題の所在さえ理解できていません。

 かくいう私も計算幾何学については素人ですが、議論の内容を聞いて事実関係と照らし合わせれば”誰に当事者たるべき能力がないか”は見て取れます。一連の事業仕分けと、その後の集会では、装置の仕様、性能、コストの問題は一切なされて居ないわけですから、本質的な問題については科学的・技術的な側面から議論できていないのは自明です。要は、事業仕分けもその後の集会も、装置の仕様の妥当性や絶対的なコストパフォーマンスを議論する能力のない素人が空騒ぎをしていただけのことであって、科学的な議論とは最も遠いものでした。それは、議論の参加者がノーベル賞受賞者であっても同じことで、専門分野の外では普通の人でしかありません。

 そんなわけで、一連の騒動はたしかに科学への投資に関わる話ではあったのですが、私にはあの騒動を見ることによって、科学の何かがわかるようになるとはどうしても思えないのです。

 では、「科学」って一体何なんでしょうね?私個人にとっては、それは”自然現象を理解しようとする試み”に他なりません。実験する、観察する、論文を読む、ネットで調べる、他人と討論する、ひとりで考えをまとめて計算したり図表や文章にする、それを発表する・・・考えてみるとこれまでの私の生活中での中心的な位置を占めてきました。この他に、申請書を書く、計画書を書く、報告書を書く、調査票を書く、メールを書く、など、研究そのものではないけれど「科学」を支えるのに必要な活動もあります。この他、音楽を聴く、専門分野以外の本を読む、テレビを見る、ゲームで遊ぶ、などなど、食う・寝る・遊ぶという普通の生活もありますが、日常生活の大部分の時間を”科学する”ことに投入している点が、職業的科学者と科学者以外の一般市民との生活の違いです。私にとっては”科学的な考え方”は抜きがたく身に染みついた第二の習性とも言うべきもので、それ以外にどんな考え方があり得るのかと訝しむほどです。これはもう、科学との不適切な関係・・・なのかもしれません。

 そういう個人的な日々の営みの中の科学も、Spring-8や実験炉もんじゅを動かしたり、国際宇宙ステーションを運用して実験を行うbig scienceもまた、同じように科学という一つのことばで言い表されます。科学ということばは使われる文脈に依存して大きく意味が変わるものですから、私は科学の門外漢の方々に科学の必要性・重要性を説くときには、今、どの水準の科学について話しているのかを明らかにした方が話が分かり易いのではないかと思います。

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2010年5月 9日 (日)

科学は知の異種格闘技か?

 物理学者ファイマン曰く

「科学にとっての哲学は、鳥にとっての鳥類学者と同じだ」 (p. 220)

高橋昌一郎著、講談社現代新書、知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性より孫引き。ある意味、科学者にとってのサイエンスコミュニケーターもまた、鳥にとっての鳥類学者と同じようなものかもしれないなぁ。

 また、この本では哲学者ファイヤアーベント(Paul Feyerabend)を紹介しています。私、不勉強にしてファイヤアーベントを知りませんでした。私は、ファイマンさんの位置づけではどちらかと言えば鳥類学者よりは鳥のほうなので、同時代の哲学者トーマス・クーンのパラダイムという用語や、通常科学への異常科学の挑戦という科学史観は知っていたけれど、「何でもあり」という立場は初めて知りました。

「科学は本質的にアナーキスト的な行為だ」

 こんなにアナーキーなことを言う哲学者が居たとはショッキングです。言うなれば、科学とは正統対異端の二項対立ではなく、「何でもあり」の知の異種格闘義戦又はバトル・ロワイアル。正しいものが勝つのではなく、勝ったものが正しいのだ・・・違うか。

 もう一つファイヤアーベントの言葉を引用しておこう。

「自分の話し方の基準にこだわって、その基準に合わないものは何でも拒否してしまう。いったん話題が馴染みのないものになり、自分の型にはまった判断からはみ出すとたちまち見慣れない服を着た主人に出会った犬みたいに、途方にくれてしまう。」

 ファイヤアーベントは、柔道着を着て居ないヤツとは試合ができないとか、土俵の上でなければ取り組みができないとは言わないのですね。「特権意識的失語症」の対極にある姿勢なのだろうか。なんだか親しみが持てます。今度、ファイヤアーベントの著書を読んでみよう。

 私の見るところ、この国の科学は今、伝統的なあり方を変えようとしている。明治以来、これまでは税を原資とする研究のステイクホルダーは、科学者とスポンサーの代理人たる官僚だけであったが、今後、科学者もこれまでよりもより一層、市民への説明責任を負わなくてはならなくなってきた。先般の事業仕分けも然り。今年の総合科学技術会議 基本政策専門調査会(第7回)の科学技術基本政策策定の基本方針(素案)(PDF)の”Ⅴ.これからの新たな政策の展開”にも次のようにある。

3.科学・技術コミュニケーションの抜本的強化 ~国民とともに創り進める政策~
(1)政策の企画立案・推進への国民参画の促進
○ 科学・技術・イノベーション政策で解決すべき課題や社会ニーズ、科学・技術の成果が社会に還元される際の課題等について、広く国民が参画して議論できる場の形成など新たな仕組みを整備する
○ 国民の政策への積極的参画を促す観点から、例えばNPO法人等による地域社会での科学・技術コミュニケーション活動や、社会的課題に関する調査・分析に係る取組を支援する。
○ 国民が自ら科学・技術の活用や要望について判断できるような情報提供やリテラシー向上の取組を行う

 このように、研究プロジェクトの企画立案段階から国民が参加するのであれば、当然、国民に対して科学者が説明や対話をする機会が増えていくだろう。もしそうなれば、もう”非科学者”である一般国民の使う用語や概念の正確性がどうのとは言っていられない状況での議論が、有無をいわさず広げられていくことになるだろう。

 普通に考えれば予算獲得に関わるそのような議論を、これまた一種”非専門家”であるサイエンスコミュニケーターだけが担うことはできないであろうから、ある程度のポジションにある科学者は否応なく、知の異種格闘義戦に引きずり込まれて行くことだろう。しかし、恐れることはない。もし、ファイヤアーベントの言うように

「科学は本質的にアナーキスト的な行為だ」

というのであれば、本領を遺憾なく発揮すればよいのだから。

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2008年2月 1日 (金)

ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書)

世情を鑑みず好き勝手を書くつもりが昨日は時事ネタを書いてしまった。いかんいかん。で、今日はまたマイペースに戻す。

 


 

ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書)

経済学者、飯田泰之氏の著書。実りある議論をするために、まず論理的でない議論を篩い落とすための機械的分析の方法論を提案する本。

機械的方法論とは、以下の5点から、議論の主張・内容ではなく、まず”議論の様式”を検討する方法のこと。

  1. 単純なデータ観察で否定されないか
  2. 定義の誤解・失敗はないか
  3. 無内容または反証不可能な言説
  4. 比喩と例話に支えられた主張
  5. 難解な理論の不安定な結論

全体としては、ちょっと冗長に感じる部分(第5章)もあるが、全体としては良い本です。

# ちなみに、この本によればここで言った「良い本」をきちんと定義しておかないと、それは「ダメな議論」ということになる。 ここでは、”「良い本」の客観的な基準はないが、前書きを見て納得して買うなら、買って損はしない本”と言っておこう。

職場のU君が貸してくれた本なので、折角だからと読んでみたのだが、 少なくとも私はこの本の著者が想定する読者層には入っていないように思う。自然科学分野の研究を商売にしている人々は、 通常の科学論文を読む際には上記の1.-5.よりももっと厳しい基準を立てて論文を読むので、何を今さら・・・という感があるのだ。

しかし、論理的に議論を構築するトレーニングを積んでいない人々にとっては、この本でも「ダメな議論」 を見抜くには十分役に立つのではないかと思うので、「良い本」だと言っておく。

科学者でも、日常の議論ではもっと甘い基準で暮らしているが(そうでないと日常会話が成立しない)、 真面目に議論をする場合は1.-5.以上に厳しくい基準で検討しながら考えている(少なくとも私はそうです)。

例えば、

  • 単純なデータ観察」と言う前に、そのデータ(あるいは観察)は
    • どのような目的で採られたデータ(あるいは行われた観察)か?
    • 目的に照らして、データの取り方(あるいは観察の仕方)は妥当か?
    • データを取った際(あるいは観察を行った際)の前提条件が示されているか?

を検討する。最初からバイアスのかかった測定データ、偏った観察結果かもしれないし、 今議論している際の前提条件とは噛み合わない前提条件で採られたデータの場合は、無条件で議論の素材にはできないと考えた方がよい。

定義については、自然科学でも人文系の科学でも何時、誰が行った定義かが示される場合が多い。 曲解している場合にはすぐに分かる様になっている。従って、きちんと定義されていなと多くの場合議論が成立しないと見て良い。

無内容または反証不可能な言説」については、 科学論文では滅多にお目にかからないがたまにはある。多くの場合、他の研究者から反論されるか、 無視されるので有害な言説になることは少ない(これは例外) 。

比喩と例話に支えられた主張」は、相手にされない。というか議論にならないので、 こういう基準は無い。

難解な理論の不安定な結論」については、理論がきちんと理解できていない場合、 そもそも話題にしてはいけない。その場合、いかなる結論も保留するしかない。それでも議論しなければならない場合は、いかに難解な理論でも、 まず理解する所から始めなければならない。その上で結論が不安定な場合は、前提条件の確実性を疑うか、結論を導き出すプロセスを疑うか、 それらを検証して問題がない場合には、理論そのものを疑わなければならない。

この他、「その議論の前提となる事実はこれまで言われてきた事実とどう違うのか?」とか、 「その議論の結論はこれまで行われてきた議論の結論とどう違うのか?」(つまり、新規性はあるのか) とか・・・要するに、科学者ってのはお笑いでいうツッコミのスタンスを徹頭徹尾、堅持する商売なのだ。

ちなみにこのblogは、私にとっては茶飲み話のような位置づけなので、上記の議論の前提はあてはめていません。そう、相当緩い定義、 そして、いい加減な議論を宗として書いてます。検証作業というのは相当に神経をすり減らすので、 そうでもなきゃ毎日のようには書いてられません。

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2007年9月18日 (火)

生物と無生物のあいだ - 福岡 伸一 著 -

分子生物学者のエッセイである。  所々にちりばめられた専門的な生物学の知識をきらびやかな文体と巧みな比喩で専門家でない読者にもわかりやすく説いている。・・・ のだろう。私はほぼ専門家なので、非専門家の視点には立てない。だから、私は、 非専門家向けにこの本の書評をするには不向きな人物であることを自覚している。

私は分子生物学者ではないが、それにかなり近い研究者なので、生命が動的平衡状態にあることや、 生物が動的平衡状態にある物質の秩序の上に成り立っている「何者か」であることは知っている。この本の書評を書いている人の多くにとって、 生命が動的平衡状態であることが目から鱗の新鮮な知見であることの方が、私にとっては目から鱗である。

読者の中には「生物」と「生命」の違いがわかっていない方もいるようだ。 また、本書での生物に関する記述が、遺伝物質(遺伝子ではない)から、代謝、細胞、 個体という順に微視的視野から巨視的視野へと順次ズームアウトしていく構成になっていることさえ追えないでいる読者もいるようだ。

腰巻きに寸評している内田 樹先生によれば 「理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツイスト」がきれいに決まると、背筋がぞくっとする。」のだそうだ。この感覚は、 私にはわからない。なぜならば、ロジカルでクールな文章とは、「論理がツイストしない(ねじれない)」文章だからだ。そのかわり、 論文を読んでいると時折、ロジカルで淡々と事実を紡いでいて至極クールで、しかも論理がちっともツイストしていないで、 その分剛速球のようにズドンと決まるというものに出会う。そんな時にこそ、私は背筋がぞくっとする。

かつて、川喜多愛郎先生が「生物と無生物の間」 という本を著した。その本の主題は、ウイルスという自己複製する要素ではあるが自己複製能力を持たない物質であった。ウイルスは核酸を持ち、 それを遺伝子として機能させる複製装置も翻訳装置も持っていない。翻って、「生物と無生物のあいだ」でも、やはり生物のような「もの」 としてウイルスが記述されている。しかし、この本全体を通じて流れている主題としての「生物と無生物のあいだ」とは、 無生物であるDNAが転写され、翻訳され、機能タンパクが入れ替わり立ち替わりしながら代謝を続ける平衡状態・・・ すなわち物質から生命にいたるプロセス全体を指しているようにも読める。

福岡先生の「生物と無生物のあいだ」は、そのきらびやかな文体と巧みな比喩で今後も多くの読者を魅了するだろう。しかし、 残念ながら私には「響かなかった」。なぜか?この本に書いていることは面白く、ほぼ正確だ。世間に知られないポスドクの何たるかも、 一般向けの本で語ることに意義はある。しかし、 著書に書かれた福岡先生の研究者としての過去と現在のありようとの不連続性に私は痛みを感じる。福岡先生は言う。 アカデミズムのヒエラルキーは死んだ鳥を生むと。しかし、そのヒエラルキーを完全に否定しては、なかなか研究業績も出ないし、 卒業生は院生として研究室に居着かない。ファンドが取れなければポスドクも雇えない。また、事務系のスタッフも雇えなければ、 ラボのマネージメントも教授一人がしなくてはいけない。

 


 

生命は、非常に精密であると同時に、非常にアバウトにできている。細胞内の信号伝達は、 精妙なタンパク質のネットワークを通して行われている。福岡先生が言うように、ある遺伝子をノックアウトしても、 代替経路で信号が伝えられると、一見なにごとも起こらなかったように見える事もある。 よく似た遺伝子が破壊された遺伝子のバックアップにあたることもあれば、 酵素反応の果ての代謝産物ベースでなんとかつじつまを付けてしまうこともある。最初から遺伝子のスペアを複数用意している場合もあれば、 一つの遺伝子を様々な組織で使い回している場合もある。逆に、生物のライフサイクルの中で1,2回、 ここぞ、と言うタイミングでしか使われない遺伝子もある(私は勝手に 「冠婚葬祭用遺伝子」と呼んでいる)。

遺伝子組換え技術は、その動的平衡状態に対する挑戦である。・・・というと、神の摂理に挑んでいるかのごとく言う人もあろう。 私の言う挑戦とは、そんなことではない。エントロピーに逆らって「変わるまい」とするのが、生命の本質であるとするならば、 数個の遺伝子を操作して外から入れたくらいで、その生命という平衡状態を保っている生物を変えるのは、なかなか大変だということなのだ。

生物は時に不思議なことをする。短波長の光の届かない海中にいるクラゲがなぜか、 青色の光をあてると緑色の蛍光を発するタンパク質を作ったりする。ほとんど意味不明というか、生命現象であるので「合目的性」はない。

かと思うと、植物の貯蔵タンパク質には裸子植物から被子植物まで広く構造が保存されているものもある。11Sグロブリンがそうだ。 特に不都合が無い限り、パーツの使い回しをしているかの様に見える。まるで、新製品はとかく故障しがちという事を知っている様な保守性だ。

翻って、工業製品にもこのような保守性が見られる場合がある。例えば乾電池がそうだ。 単三という規格の乾電池しか受け付けない構造の機器が世の中にある限り、電池の中身が「マンガン乾電池」、「アルカリ乾電池」、 「水銀フリーアルカリ乾電池」、「ニッカド充電池」、「ニッケル水素充電池」、「リチウムイオン充電池」と変化していても、 外見はほとんど変わらない。

そう考えると、植物の11Sグロブリンも、個々のタンパク質分子の大きさと立体構造、三量体を形成する性質、酸性- 塩基性サブユニットに開裂する性質、特定の貯蔵液胞に蓄積する性質は保存されている。一方、アミノ酸の一次構造はあまり保存されていない。 こちらは、分子時計なりの進化速度で変わっているようだ。

では、「個々のタンパク質分子の大きさと立体構造、三量体を形成する性質、酸性-塩基性サブユニットに開裂する性質、 特定の貯蔵液胞に蓄積する性質」が保存されているのは何故か・・・これは、 その規格の電池しか受け付けない装置が細胞の中にある、ということでは無いだろうか? 一次構造からは推定し得ない保守性の謎を解く鍵はそんなところにあるのかもしれない。

 

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2007年8月20日 (月)

戦場でようよう紐解く孫子かな

なりゆきでとある開発プロジェクトの進行管理の一端を担うことになった。「なりゆきで」、 というのは特に進行管理を指示された訳ではなく、並行して走る業務があるのに誰も調整をしないことが明らかになったので、 何の準備もなく進行管理をする羽目になったということだ。

プロジェクトの段取り経験がないので、こういう場合どこから手を付けて良いか分からない。 考えてみると、世の中にはこれまでに山ほどプロジェクトがあり、その進行管理には幾多の人々が関わってきている。 その経験知が体系化されていないはずはないし、体系化されていないのであれば非常にもったいない話だ、そう思ってプロジェクトの管理手法、 方法論を探してみた。

プロジェクト・マネジメントという工学と経営学の学際分野がそれにあたるようだ。 特にIT分野の開発プロジェクトでは必須の管理手法になっているらしい。関連書籍も随分あるし、資格まである。研究開発分野の末端にいると、 マネジメントされてばかりなので、こういう分野にはなかなか目がいかないのだが、 世の中には段取りで飯を食っている人も居るんですねと感心した。というか、段取りで飯を食う人を管理職って呼ぶのですね。本来は。

その一方、私の居る研究所にはプロジェクト・マネジメントと体系的に言えるような体系的・ 組織的な方法で段取りをするスタッフも居ないしセクションもない。もっとも、不確定要素の多い研究と、 成熟技術の組合せで成立する開発とでは予測の精度が大きく違うので、研究型のプロジェクトには既存のプロジェクト・ マネジメント型の進行管理はなじまないので、プロジェクト・マネジメントの専門家が居ないのもある意味、もっともな話ではある。

ということで、最近読み出した本がこれ。

世界一わかりやすいプロジェクト・マネジメント

孫子曰く、「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」。でも、 戦場で孫子を紐解いてる様では遅いんですけどね。

2006年5月12日 (金)

読了。藤原正彦 著「国家の品格」

 本日は大阪出張。往復、8時間ほど電車に乗ることになるので結構時間はある。ではあるが、如何なLet's nore CF-Y4でも移動中にフルに使い続けると、肝心の仕事の間にバッテリーが切れないとも限らないので要注意だ。

 さて、読後感想だが、フィクションとしては、いろいろな意味で面白い。著者の主張には概ね賛成できる。普通の本だと、 私は著者の主張を成す論理構成について考えるところだが、この本の場合は著者は最初から、日本人が行なう判断の基準として重要なのは「情緒」 と「形」であって、論理はさほど重要ではないと主張しているので、論理構成について論評すること自体が、見当はずれになるかもしれない。 しかし、あえて言うならば、「論理的に正しいだけの判断は、人間の行なう判断として必ずしも妥当ではないこともある」 という点には賛成できるが、だからといって著者が「論理に基準を置く判断は、常に妥当ではない」という議論を展開するのであれば、 その議論の展開に私は反対する。

 「論理的に整合性が取れている」だけでは大局的に誤った判断を下すことがある、という考察は正しいと思う。ではあるが、 その点を強調しようとするあまり、「論理」という思考の道具の有効性をこき下ろすやり口はやはり間違っている。判断を下すための道具として、 「論理」が如何に劣悪な道具かを「筋道立てて」説明してみせるという一種のギャグとしては良くできてはいるが。

 要約するとこの本は、日本人が品格のある国家を築くための行動規範は「キリスト教的道徳」(特にピューリタン的道徳)ではなく 「武士道」であり、規範に沿って行動するための判断の道具は「論理」ではなく、「情緒」と「形」であるという主張を展開している。「情緒」 とは四季の変化のある繊細な自然にはぐくまれた”もののあはれを解する感性”を、「形」とは歴史と伝統によって時間を掛けて磨かれてきた” 洗練された行動様式”を意味する。

 だが、これらの、人としての行動規範、行動様式が直接作り上げるものは、たとえば「品格ある日本人」であって、「品格ある国家」 ではないだろう。本書の表題たる「国家の品格」は、単に個々人の行動規範の集積と「祖国愛」とによって自然と醸成されるものであろうか? また、内田樹氏の論評にもあるように「品格」があるかどうかは、本人が判断ではなく他者の目が決めることだ。たとえば、「背筋を伸ばす」 ことはできても、「良い姿勢」をとることができるとは限らない、というのと似ているかもしれない。背筋が伸びた姿勢を「良い」 と判断するかどうかは、見る側の主観にかかっている。特に、 多様性を認める度量の無いグローバリズムという一神教的価値判断しかもたない輩を相手にせざるを得ない場合、 幾ら背筋を伸ばして見せたとて何のメッセージも伝わらないかもしれない。

 この本の提案する「斯くありたい日本人像」には私は概ね賛成する。だが、次の点には賛同できない。「形」 に基準を置く判断は世代を超えた経験を通じて磨かれてきただけあって、多くの場合間違いが少ないことは認める。しかし、その反面、 変えないことを良しとする硬直性は、時代の変化に対応しにくいという弱点を持つ。 鎖国政策の下でゼロ成長が260年続いた江戸時代であれば日常の判断の基準としての「形」は非常に有効な道具であったに違いないが、 国際情勢も国内の制度も頻繁に変化し続ける現代において、「形」の方が「論理」よりも有効な道具であるとは私には思えない。少なくとも、 一般国民は別としても、政治指導者には、「形」に従ってこの国の行く末を決めることはして欲しくないものだ。

 再び表題に戻るが、「くに」、「国」、「国家」という言葉は何を指すか、この本を読んで再度考えさせられた。 領土+国民+政府=国家であるならば、国=風土+文化+民族であろう。国家という言葉には、 社会制度をも含む意味が込められているように思うが、この本では国家を動かす制度についての考察はあまり無いように思う。その点で、 この表題はあまり適切ではないだろう。

2006年3月26日 (日)

読了。内田康夫 著「悪魔の種子」

 18:16 内田康夫 著「悪魔の種子」読了。嫁さんの出張している日曜日は読書がはかどる。2時間半で一気読みです。(ちょっと勿体無い。)

 「悪魔の種子」の”の”は、先のエントリーの、」2. 「この種子は悪魔のもの!」に最も近いようです。一読した範囲では、この小説では”人間の欲望をかき立てる「悪魔の種子」”という表現はp.341にただ一度登場するのみです。

 全編を通じて遺伝子組換え作物を悪と決め付けるトーンは感じられず、マッドサイエンティストも登場しないので安心して読んでられます。また、「花粉症緩和米」は医薬品か食品か、という未解決の問題点にもフォーカスしており、その議論がまさにこの小説のプロットを成立させる前提条件となっています。なかなか鋭い視点といえましょう。ただし、出所のわからない遺伝子組換え生物をいきなり医薬品の開発トラックに乗せるのは幾らなんでも無理かと。

 一方、作物・食品としての位置づけで開発を進めるとして、どこからか「医薬品」にすることも不可能ではありません。籾は生物・作物扱い、玄米も同様、精米すると食品ではあるがそのままでは摂取できないので医薬品ではない、炊飯米は食品あるいは医薬品になる、という区別がありえます。ですので、種子や植物体は医薬品そのものにはなりません。

 ちなみに医薬品原料となる植物の栽培については、麻やケシ以外には特に規制はありません。いずれも麻薬原料以外の用途がごく限られていることから、厳しく規制することで社会に対する有害性を発揮しないようにするというものです。これとイネを同列に扱うのはどうかと思いますが。

 7Crpの減感作作用については確かに報告はありますが、これまで7Crpで感作されていないヒト(あるいは動物)に7Crpを経口摂取させると、新たに感作さてしまうリスクは、食品に含まれる他のペプチドと同程度にはあると考えられます。もっとも、アミノ酸組成よってもその程度は違うので、7Crpが特に危険であるというような議論は妥当性を欠きますが。

 そうそう、スギ花粉エキスだの、ドリンクなんていうものも売ってますが、グロブリンEに反応する生の抗原を摂取するとアナフラキシーの危険もあるようですが・・・。プロテアーゼ・インヒビターを含む食品を一緒に摂らなければ大丈夫なのかな。

買っちゃいました。内田康夫 著「悪魔の種子」

 遺伝子組換えイネをだしにしたミステリーとのこと。

 ・・・ですが、ちょっと立ち読みしたところ、「花粉症緩和イネ」に関する報道が時系列で掲載されているではありませんか。で、資料になるような気もしたので買っちゃいました。

 しかし、「○○の種子」の「の」って、どういう使い方なんだろう?「コロンブスの玉子」の「の」か、「鶏の卵」の「の」か。「悪魔の種子」も、

  1. 「この種子を開発したのは悪魔です。」(「サカタのタネ」のアナロジー)なのか、
  2. 「この種子は悪魔のもの!」なのか、
  3. 「ご注意。この種子を蒔くと悪魔が生えてきます。」(想像するとかなり怖い気もするが、若取りすると”小悪魔” がお楽しみいただけます・・・というのはちょっと嬉しいかも知れない。ま、大きく育てすぎると手に負えなくなるのだね。)なのか、

非常に気になる。読み終わったら、それがわかるようになるんだろうか。楽しみ楽しみ。

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