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書籍・雑誌

2011年12月15日 (木)

有機農業と遺伝子組換え食品 ”Tomorrow's Table” についてのメモ

有機農業と遺伝子組換え食品 ”Tomorrow's TablePamela C.Ronald 著 Raoul W.Adamchak 著 椎名 隆 (他)訳  丸善 2730円(税込) 2011年06月 発行
ISBN 978-4-621-08400-7

 現在の、そして将来の遺伝子組換え作物と有機農業の組み合わせは、やがてやってくる肥料や化石燃料が十分に使えない時代の農業生産を支えることになるだろう、という強い主張に貫かれた本。良書だと思う。
 読み終わって暫く経つのだけれど、読んでいたときに気になった点をいくつか指摘しておくことにした。(日本語で読んで、あれれ?と思って原著の方も買ってしまった。)

第1章 p. 12, L. 8 (誤)インディアンライス(マコモ)、(正)インディカ水稲

説明 原文では”traditional Indian rice variety”となっている。マコモ(Zizania latifolia)の英語表現としては、しばしばIndian riceが用いられるが、この文脈では深水耐性のイネ在来品種FR13Aについて言及しているので、インディカ水稲とするのが妥当。これは、著者らの開発した深水耐性イネの論文を見てもそうなっているので、間違いないだろう。

 なお、マコモとイネの種間雑種もできているので、ちょっとだけ紛らわしいのも事実。

第3章 p. 53, L. 12 (誤?)生物動力学、(正?)バイオダイナミクスあるいはバイオダイナミック

説明 間違い、と言うわけではないけれど。バイオダイナミクス農法はドイツのルドルフ・シュタイナーの提唱したオカルト的有機農法として知られている。日本バイオダイナミック協会によると、ホリスティック医療、ホメオパシー医療、マクロビオティックと連携しそれらを総合する知恵として発展していかなければならないものらしいので、この用語を取り扱う際には科学的かつ慎重に文脈を読みとる必要がある。なお、本書での扱いは有機農業の歴史的な発展の中での扱いに留まっており妥当であろうと思う。

第4章 p. 72, 図4.4での組換え植物体の選抜方法。

説明 参考文献では、Lucca et al.(2001)を 引用している。従って、この原著論文によれば、この本で扱っている選抜マーカーもPhosphomannose isomerase(PMI)ということになる。この酵素を導入された細胞は、通常の植物が利用できないマンノースを栄養にすることができるようになるの で、培地にエネルギー源としてマンノースを含みショ糖をわずかしか含まない環境では原理的には形質転換された細胞のみが生存できる。

 図では「ショ糖耐性」と書かれているが、ショ糖が毒性を発揮するわけではないので、正しくは「マンノース資化性」と呼ぶべきである。・・・と思って原文を見たらSugar toleranceの扱いになっているので、著者も勘違いしています。

 なお、この選抜システムは最近の遺伝子組換え作物では、かつての抗生物質耐性遺伝子や除草剤耐性遺伝子のかわりによく使われるようになってきている。見方によっては、遺伝子組換え作物に対する反対運動によって技術的解決が進歩した例と言えなくもありません。

2010年5月 9日 (日)

科学は知の異種格闘技か?

 物理学者ファイマン曰く

「科学にとっての哲学は、鳥にとっての鳥類学者と同じだ」 (p. 220)

高橋昌一郎著、講談社現代新書、知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性より孫引き。ある意味、科学者にとってのサイエンスコミュニケーターもまた、鳥にとっての鳥類学者と同じようなものかもしれないなぁ。

 また、この本では哲学者ファイヤアーベント(Paul Feyerabend)を紹介しています。私、不勉強にしてファイヤアーベントを知りませんでした。私は、ファイマンさんの位置づけではどちらかと言えば鳥類学者よりは鳥のほうなので、同時代の哲学者トーマス・クーンのパラダイムという用語や、通常科学への異常科学の挑戦という科学史観は知っていたけれど、「何でもあり」という立場は初めて知りました。

「科学は本質的にアナーキスト的な行為だ」

 こんなにアナーキーなことを言う哲学者が居たとはショッキングです。言うなれば、科学とは正統対異端の二項対立ではなく、「何でもあり」の知の異種格闘義戦又はバトル・ロワイアル。正しいものが勝つのではなく、勝ったものが正しいのだ・・・違うか。

 もう一つファイヤアーベントの言葉を引用しておこう。

「自分の話し方の基準にこだわって、その基準に合わないものは何でも拒否してしまう。いったん話題が馴染みのないものになり、自分の型にはまった判断からはみ出すとたちまち見慣れない服を着た主人に出会った犬みたいに、途方にくれてしまう。」

 ファイヤアーベントは、柔道着を着て居ないヤツとは試合ができないとか、土俵の上でなければ取り組みができないとは言わないのですね。「特権意識的失語症」の対極にある姿勢なのだろうか。なんだか親しみが持てます。今度、ファイヤアーベントの著書を読んでみよう。

 私の見るところ、この国の科学は今、伝統的なあり方を変えようとしている。明治以来、これまでは税を原資とする研究のステイクホルダーは、科学者とスポンサーの代理人たる官僚だけであったが、今後、科学者もこれまでよりもより一層、市民への説明責任を負わなくてはならなくなってきた。先般の事業仕分けも然り。今年の総合科学技術会議 基本政策専門調査会(第7回)の科学技術基本政策策定の基本方針(素案)(PDF)の”Ⅴ.これからの新たな政策の展開”にも次のようにある。

3.科学・技術コミュニケーションの抜本的強化 ~国民とともに創り進める政策~
(1)政策の企画立案・推進への国民参画の促進
○ 科学・技術・イノベーション政策で解決すべき課題や社会ニーズ、科学・技術の成果が社会に還元される際の課題等について、広く国民が参画して議論できる場の形成など新たな仕組みを整備する
○ 国民の政策への積極的参画を促す観点から、例えばNPO法人等による地域社会での科学・技術コミュニケーション活動や、社会的課題に関する調査・分析に係る取組を支援する。
○ 国民が自ら科学・技術の活用や要望について判断できるような情報提供やリテラシー向上の取組を行う

 このように、研究プロジェクトの企画立案段階から国民が参加するのであれば、当然、国民に対して科学者が説明や対話をする機会が増えていくだろう。もしそうなれば、もう”非科学者”である一般国民の使う用語や概念の正確性がどうのとは言っていられない状況での議論が、有無をいわさず広げられていくことになるだろう。

 普通に考えれば予算獲得に関わるそのような議論を、これまた一種”非専門家”であるサイエンスコミュニケーターだけが担うことはできないであろうから、ある程度のポジションにある科学者は否応なく、知の異種格闘義戦に引きずり込まれて行くことだろう。しかし、恐れることはない。もし、ファイヤアーベントの言うように

「科学は本質的にアナーキスト的な行為だ」

というのであれば、本領を遺憾なく発揮すればよいのだから。

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2009年1月17日 (土)

天ぷらにソースをかけますか?-ニッポン食文化の境界線

天ぷらにソースをかけますか?―ニッポン食文化の境界線 (新潮文庫)

 日本経済新聞社の野瀬泰申氏の著書を紹介しつつ。
 この本は、食べ物の嗜好についての地域差を方言と捕らえて、その地理的マッピングを行なっている。今風にWebでのアンケート調査と実地調査による裏づけを行なっており、データの信憑性は概ね高いと考えられる。

# ちなみに私も一寸だけ意見を寄せています。

 私は北海道出身だが、仕事の都合で香川県、熊本県、茨城県を渡り歩いてきた。この本で取り上げられたような「食の方言」を身をもって(舌を持って?)感じてきたので、頷ける部分が非常に多い。日本は、ちょっとした食習慣の違いを持つ文化圏のモザイクなのだと。

 香川に居たときは、うどん屋さんで冷めた天ぷらを熱々のうどんだしにトップリ漬けて食べていたし、熊本に居たときは、たしかにソースをかけるのが身の回りでは普通だった。北海道にいた頃は天つゆや醤油で食べるのが普通だったが、どれも実際にやってみると「これも、アリか」という感じだ。
 香川でも熊本でも、味噌といえば麦味噌が多く売られていた。私は、津軽三年味噌のような長期熟成型の塩分の多い米味噌で育ったのだが、食べてみると麦味噌も悪くはない。今は、茨城に住んでいるが大分の”フンドーキン”の麦味噌を愛用している。

 「天ぷらにソースをかけますか?」では、味噌汁の味噌に着目して地域差を考察しているのだが、味噌汁にはもう一つ重要な構成要素がある。”だし”だ。具のバリエーションは非常に多様なのでまとめようがないのだが、だしについては概ねイリコ(煮干)、ふし(カツオ、さば等)、昆布の三種類程度に限られている。この三種類のだしと味噌の種類(米、麦、豆)の組合せは、実はランダムではないように思う。たとえば、イリコだしは長崎から瀬戸内を通って四国の瀬戸内側、兵庫くらいまで分布している。うどんのだしも、香川ではイリコ+昆布がスタンダードだが、大阪から名古屋くらいまでは、ふし+昆布になっている。これはスーパーで売っているイリコの種類でも確認できる。岡山や香川では、イリコの大きさ別に大羽、中羽、小羽とサイズ別に分類されているのが普通だが、茨城ではそのような分類はない。単に「煮干」とかかれて一緒くたにされてしまっている。生活者のイリコに対する関心の程度が反映されているためだろう。

 このイリコに対する関心の高い地域は、概ね麦味噌地帯と概ねかさなる様に思う。だしの素材も味噌の原材料と同様、それぞれの地域で入手しやすいものがよく利用されている点では同じ原理が働いているようだ。瀬戸内や長崎ではイリコの原材料のカタクチイワシが良く取れる。昆布は昔から北前船の西回り航路で蝦夷地から大阪まで運ばれてきた。江戸時代からニンベンの鰹節というのが有名だが、江戸で鰹節を作っていたわけではない。鰹節は様々な流通をしているようだが焼津や枕崎で作られたものが全国に流れている。落語にもこんな小話がある。

「カツオってどんな字だっけ?」
「ニンベンだろ」

 脱線した。だしと味噌のコンビネーションに戻るが、 実際、食べてみても麦味噌の味噌汁にはカツオだしや昆布だしよりも、イリコだしの方がよく合うように感じる。味噌に含まれる遊離アミノ酸の種類が、米&麦(イネ科)、大豆(マメ科)で違っていて、だしの側の遊離アミノ酸の種類もイリコ、ふし、昆布で異なるため、旨みの相乗効果を発揮するコンビネーションが限られているのかもしれない。ヒトの舌が感じるアミノ酸によるウマミの相乗効果に関してこういう論文が出ていた。

Zhang, F. et al. Molecular mechanism for the umami taste synergism. Proc Natl Acad Sci U S A  (2008).doi:10.1073/pnas.0810174106

 昆布だしに含まれるうまみ成分のグルタミン酸とかつおだしに含まれるイノシン酸を合わせると、うまみが増す「相乗効果」が起きる。その仕組みに関するモデルを立てて、舌の表面にある「味覚受容体」と呼ばれるたんぱく質の一種「T1R1」分子に対するグルタミン酸とイノシン酸の結合の仕方をラットを使って実験的に確かめた研究。二枚貝の殻のようなT1R1分子の間にグルタミン酸が取り込まれた後で、イノシン酸が開閉部先端に結合すると、グルタミン酸が分子内に長く保持されるためにウマミのシグナルが長く続くらしい。

 味噌汁のだしと味噌のコンビネーションでもこの作用が・・・というのはいまのところ妄想。

 だが、だしに注目すると昆布はグルタミン酸、カツオはイノシン酸、イリコはグルタミン酸とイノシン酸の両方が含まれている。味噌の原材料の大豆と米(または裸麦)では貯蔵増たんぱく質のアミノ酸組成が異なることから、その分解産物のアミノ酸組成も異なる。おお、丁度良い論文があった。

植田 志摩子 “市販味噌のタンパク質・水分・食塩含量および遊離アミノ酸量について,” 帯広大谷短期大学紀要 35: 49-55. 

 これによると、

8.遊離アミノ酸量は1,036.5~3,416.lmg/100gであり、豆味噌>米味噌(西京白味噌除く)>加工味噌>麦味噌の順であった。
9.15種類の各アミノ酸において類似したのは、米味噌で淡色糸の純正米麹味噌と信州味噌が、そして、赤色糸の赤味噌と仙白味噌であった。
10.主な遊離アミノ酸量では、各味噌ともグルタミン酸が最も多く(106.6~746.1mg/100g、平均328.9mg/100g)であり、組成比で7.3~25.1%を占めていた。次いで、プロリン、アルギニン、ロイシンの順に多かった。

とある。

 つまり、味噌の遊離アミノ酸のうち最も多いものはウマミ成分でもあるグルタミン酸であり、麦味噌は各種の味噌の中でも遊離アミノ酸量がもっとも少ないことから(豆味噌の1/3しかない)、ウマミ成分も最も少ないと考えられる(豆味噌の1/7?)。また、麹と大豆の配合比率によって味噌に含まれるアミノ酸のバランスが変わることもわかった。

 このことから考えれば、単体でウマミ成分が少ない麦味噌に対しては、グルタミン酸とイノシン酸を同時に加えることができるイリコだしで味噌汁を作る方法は、あわせだしにしなくともウマミの相乗効果を単一のだしで引き出すことができる点で合理的な方法であると言えよう。

 そう考えると、津軽三年味噌(米味噌)+昆布だしという私の田舎の味噌汁の作法は、グルタミン酸(味噌)+グルタミン酸(昆布)なのでちょっと寂しい。まぁ、そのかわり具材に魚やカニが入って動物性のウマミ成分を補ってくれるのだけれど。

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2007年9月18日 (火)

生物と無生物のあいだ - 福岡 伸一 著 -

分子生物学者のエッセイである。  所々にちりばめられた専門的な生物学の知識をきらびやかな文体と巧みな比喩で専門家でない読者にもわかりやすく説いている。・・・ のだろう。私はほぼ専門家なので、非専門家の視点には立てない。だから、私は、 非専門家向けにこの本の書評をするには不向きな人物であることを自覚している。

私は分子生物学者ではないが、それにかなり近い研究者なので、生命が動的平衡状態にあることや、 生物が動的平衡状態にある物質の秩序の上に成り立っている「何者か」であることは知っている。この本の書評を書いている人の多くにとって、 生命が動的平衡状態であることが目から鱗の新鮮な知見であることの方が、私にとっては目から鱗である。

読者の中には「生物」と「生命」の違いがわかっていない方もいるようだ。 また、本書での生物に関する記述が、遺伝物質(遺伝子ではない)から、代謝、細胞、 個体という順に微視的視野から巨視的視野へと順次ズームアウトしていく構成になっていることさえ追えないでいる読者もいるようだ。

腰巻きに寸評している内田 樹先生によれば 「理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツイスト」がきれいに決まると、背筋がぞくっとする。」のだそうだ。この感覚は、 私にはわからない。なぜならば、ロジカルでクールな文章とは、「論理がツイストしない(ねじれない)」文章だからだ。そのかわり、 論文を読んでいると時折、ロジカルで淡々と事実を紡いでいて至極クールで、しかも論理がちっともツイストしていないで、 その分剛速球のようにズドンと決まるというものに出会う。そんな時にこそ、私は背筋がぞくっとする。

かつて、川喜多愛郎先生が「生物と無生物の間」 という本を著した。その本の主題は、ウイルスという自己複製する要素ではあるが自己複製能力を持たない物質であった。ウイルスは核酸を持ち、 それを遺伝子として機能させる複製装置も翻訳装置も持っていない。翻って、「生物と無生物のあいだ」でも、やはり生物のような「もの」 としてウイルスが記述されている。しかし、この本全体を通じて流れている主題としての「生物と無生物のあいだ」とは、 無生物であるDNAが転写され、翻訳され、機能タンパクが入れ替わり立ち替わりしながら代謝を続ける平衡状態・・・ すなわち物質から生命にいたるプロセス全体を指しているようにも読める。

福岡先生の「生物と無生物のあいだ」は、そのきらびやかな文体と巧みな比喩で今後も多くの読者を魅了するだろう。しかし、 残念ながら私には「響かなかった」。なぜか?この本に書いていることは面白く、ほぼ正確だ。世間に知られないポスドクの何たるかも、 一般向けの本で語ることに意義はある。しかし、 著書に書かれた福岡先生の研究者としての過去と現在のありようとの不連続性に私は痛みを感じる。福岡先生は言う。 アカデミズムのヒエラルキーは死んだ鳥を生むと。しかし、そのヒエラルキーを完全に否定しては、なかなか研究業績も出ないし、 卒業生は院生として研究室に居着かない。ファンドが取れなければポスドクも雇えない。また、事務系のスタッフも雇えなければ、 ラボのマネージメントも教授一人がしなくてはいけない。

 


 

生命は、非常に精密であると同時に、非常にアバウトにできている。細胞内の信号伝達は、 精妙なタンパク質のネットワークを通して行われている。福岡先生が言うように、ある遺伝子をノックアウトしても、 代替経路で信号が伝えられると、一見なにごとも起こらなかったように見える事もある。 よく似た遺伝子が破壊された遺伝子のバックアップにあたることもあれば、 酵素反応の果ての代謝産物ベースでなんとかつじつまを付けてしまうこともある。最初から遺伝子のスペアを複数用意している場合もあれば、 一つの遺伝子を様々な組織で使い回している場合もある。逆に、生物のライフサイクルの中で1,2回、 ここぞ、と言うタイミングでしか使われない遺伝子もある(私は勝手に 「冠婚葬祭用遺伝子」と呼んでいる)。

遺伝子組換え技術は、その動的平衡状態に対する挑戦である。・・・というと、神の摂理に挑んでいるかのごとく言う人もあろう。 私の言う挑戦とは、そんなことではない。エントロピーに逆らって「変わるまい」とするのが、生命の本質であるとするならば、 数個の遺伝子を操作して外から入れたくらいで、その生命という平衡状態を保っている生物を変えるのは、なかなか大変だということなのだ。

生物は時に不思議なことをする。短波長の光の届かない海中にいるクラゲがなぜか、 青色の光をあてると緑色の蛍光を発するタンパク質を作ったりする。ほとんど意味不明というか、生命現象であるので「合目的性」はない。

かと思うと、植物の貯蔵タンパク質には裸子植物から被子植物まで広く構造が保存されているものもある。11Sグロブリンがそうだ。 特に不都合が無い限り、パーツの使い回しをしているかの様に見える。まるで、新製品はとかく故障しがちという事を知っている様な保守性だ。

翻って、工業製品にもこのような保守性が見られる場合がある。例えば乾電池がそうだ。 単三という規格の乾電池しか受け付けない構造の機器が世の中にある限り、電池の中身が「マンガン乾電池」、「アルカリ乾電池」、 「水銀フリーアルカリ乾電池」、「ニッカド充電池」、「ニッケル水素充電池」、「リチウムイオン充電池」と変化していても、 外見はほとんど変わらない。

そう考えると、植物の11Sグロブリンも、個々のタンパク質分子の大きさと立体構造、三量体を形成する性質、酸性- 塩基性サブユニットに開裂する性質、特定の貯蔵液胞に蓄積する性質は保存されている。一方、アミノ酸の一次構造はあまり保存されていない。 こちらは、分子時計なりの進化速度で変わっているようだ。

では、「個々のタンパク質分子の大きさと立体構造、三量体を形成する性質、酸性-塩基性サブユニットに開裂する性質、 特定の貯蔵液胞に蓄積する性質」が保存されているのは何故か・・・これは、 その規格の電池しか受け付けない装置が細胞の中にある、ということでは無いだろうか? 一次構造からは推定し得ない保守性の謎を解く鍵はそんなところにあるのかもしれない。

 

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