育成者の権利は保護されるべきか? -大学では教えてくれない育種学-
忙しい方のためのサマリー
- 新品種できるまでに1/1,000,000の選抜強度は当たり前。
- 近代的な育種によってトウモロコシの収量は1920年代の200 kg/10aから1.2 t/10aへと6倍になった。ダイズやイネでも20世紀後半の育種で大幅な収量増が可能になった。
近代育種の目指すところ
農業生産資材としての種苗が在来品種だった時代には、現在の先進国においても「種子は農民の物」という主張も妥当だったし、参加型育種(PPB)が行われている途上国においても在来品種やPPBによる品種は農民のものという主張は恐らく妥当だろう。しかし、既に述べたとおり、近代の植物の育種は、農民ではなく公的機関や民間の事業者によって専業的に事業として行われてきた。こうなると、種子というものは買い取った農民のものであるけれど、生産性にかかわる「品種」としての特性は育種事業者の知的財産であるという二重性があらわれてくる。
植物の「品種」としての特性は、作物ごとに要求される様々な性質によって決まってくる。それは収量であり、生育の早さであり、収穫物の品質(食味、果実の大きさと均一性、酸度、糖度、日持ち性、歯ごたえ、皮の剥きやすさ)であり、様々な耐病虫性であり、・・・とにかく生産者にとってメリットのある性質と、マーケットから要求される特性のうち、農家での栽培管理や加工による工夫では改善しがたいあらゆる性質の改善が育種に求められる(なかには、「とにかく儲かる品種」という横暴な要求まである)。育成品種を採点する育種家の目線で言えば、10^6位の選抜強度は当たり前、途中で重要な形質について馬脚を現した系統は欠点を隠して顧客に届けるわけにはいかないので開発の中止は当たり前、ということになる。
新品種の開発には、時間と手間がかかっている。言い換えれば、投資しなければ高性能の品種は作れない。公的な機関の育種に関わる投資は税で支えられているが、民間の育種事業は種子の売り上げから研究開発にかった投資を回収し、次の研究開発に投資しなければ企業は存続できない。そのための最善の方法は「良い製品」を市場に投入し続けることだ(誰にとって良い製品?と言う議論はあるけれど)。
近代育種は何を達成してきたか
最近ではF1品種や遺伝子組換え技術やに絡められて様々な批判をされている近代的育種だが、それはこれまでに何を達成してきただろうか?もっともわかりやすい指標は収量だろう。たとえば、トウモロコシ。イリノイ大学のDr. Brian Diersホームページには、以下のように1924-2008年の合衆国のダイズとトウモロコシの収量のグラフが示されている。
単位がBushels/acreで日本人には馴染みのない単位なのだが、1Bushel(ブッシェル)は容積なので作物種によって異なるけれど、重量換算すると、トウモロコシ1ブッシェル=25.4 kg、ダイズ1ブッシェルは27.2 kgに相当する。1acre(エーカー)は、4046.85642 m2 = 約40aなので、1 bushel/acre = 6.3 kg/10aとなる。そうすると1924年には約230 kg/10aだったトウモロコシの収量は2008年には約1,300 kg/10a、ダイズは100 kg/10aそこそこから約240 kg/10aになっていったことがわかる。それぞれ、収量が6倍、2.4倍に増大している。
日本のイネでも、農林水産省の作物統計によれば1960年の387 kg/10aから543 kg/10aに増大している。
北海道のイネの生産性についてはもっと古いデータもある。これによれば、北海道のイネの生産性は90年間で約2.5倍になっている(冷害でない年について)。
高橋萬右衛門 (1979)北海道稲作の成立過程と将来の展望(北海道開発と技術移転)より
国・地域レベルの生産統計に見られるこうした収量の向上は、化学肥料や殺虫剤、除草剤の普及の効果、栽培管理技術の支え、農業者の能力の向上もあって初めて達成できたものである。それ故に、肥料や農薬の多投が環境破壊を引き起こしているという批判もあることは承知している。それでも、もし初期の改良品種の生産水準が在来品種と同程度であったとすると、近代的な育種による農家の増収分は、20世紀後半の生産技術の変化に対応した品種を作り出すことによって可能になってきたことは間違いない。今日の世界の人口のある部分は、この近代的な品種の高い生産性によって現実に支えられていることも忘れてはならない。
それでも、先進国において種子は農民のものと言う主張は100%妥当だろうか?私は、育成者の努力に報いる仕組みは必要だと思う。
(この項、次回へ続く)
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