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2010年5月2日 - 2010年5月8日の記事

2010年5月 7日 (金)

ネアンデルタール人からの浸透交雑は”遺伝子汚染”とは言わないのだね

現生人類への浸透交雑(introgression)の実例か?という論文。

Richard E. Green et al., “A Draft Sequence of the Neandertal Genome,” Science 328, no. 5979 (May 7, 2010): 710-722.   

新聞記事を引用すると、
(毎日新聞より)

ネアンデルタール人:ヒトと混血の可能性 ゲノムを解析

 ヒトと、ヒトに最も近い種で絶滅したネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)を独米などの研究チームが比較した結果、過去に一部が混血し、ヒトにもネアンデルタール人に由来する遺伝子が残っている可能性があることが分かった。チームが7日発行の米科学誌サイエンスに発表した。【斎藤広子】

 独マックスプランク進化人類学研究所などの研究チームは、クロアチアで出土した約3万8000年前のネアンデルタール人3体の骨の化石の細胞核からDNAを取り出し、ゲノムを解析。アフリカ南部▽同西部▽パプアニューギニア▽中国▽フランスのヒト5人のゲノムと比較した。その結果、アフリカ人を除く 3人の方がネアンデルタール人のゲノムと一致する率がわずかに高かった。チームは、アフリカで誕生したヒトの一部が8万年前以降にアフリカを離れた後、ユーラシア大陸に広がる前に中東近辺でネアンデルタール人と混血した可能性があると指摘。「ヒトの遺伝子の1~4%はネアンデルタール人に由来している可能性がある」と推測している。

 これまでヒトの細胞内のミトコンドリアDNAの分析などから、ヒトの祖先はアフリカで15万~20万年前に誕生して以降、絶滅した他種と混血しな いまま、ユーラシア大陸を経て全世界に広まったという「アフリカ単一起源説」が主流だった。一方、ネアンデルタール人については、ヒトと共存する時期があったことや、両者の交流を示唆する石器が発見されていることから、混血の可能性も指摘されていた。

なお他社の見出しでは、

ネアンデルタール人、現生人類と交配  ナショナルジオグラフィックス
ネアンデルタール人、現代人にも遺伝子…10万~5万年前に交雑か  読売新聞
ネアンデルタール人の遺伝子、我々にも? ゲノムで解明  朝日新聞

となっている。ともあれ「現生人類と交配」という断言は言い過ぎ。ある前提条件に立って行った推定が事実によく一致するとしても、それはあくまでも推定でしかない。

 ともあれ、以前、現生人類とネアンデルタール人の間で、母性遺伝するミトコンドリア・ゲノムを比較した論文があったが(著者は今回の論文と一緒)、その研究で明らかにされた範囲では、ネアンデルタール人と同じミトコンドリアゲノムの型は、現生人類からは見つかっていない。・・・少なくともネアンデルタール人の女性を母とした現生人類の祖先が居た痕跡は見られなかったということだった。

 そして今回の論文では、現代のアジア人、ヨーロッパ人の核遺伝子の1-4%はネアンデルタール人に由来している可能性があると推定している。

 これら両方の論文の整合性を考えると、もしかしたらネアンデルタール人の父と、現生人類の祖先の母のカップルが居たかもしれない・・・もし幸福な結婚であったなら、だけれども・・・という推定ができそうだ。そして、そういった結婚のイベントはただ一回ではなかっただろうと。

 ところで、誰しも自分自身のことを悪く言いたくはないからだろうか。新聞各社とも、かつて生じていた(かもしれない)近縁種からの浸透交雑(introgression)を”遺伝子汚染”とは言わないのだな。これは一種のダブルスタンダードではないだろうか。

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2010年5月 6日 (木)

一人の凡庸な科学者として私はそう思うのだ。

 小島寛之さんのblogより。

科学者とかそれっぽい立場を自称する人の多くは「説教」が大好きで、自分の専門をかさにきて、市民を叱りまくる。ちょっとした間違いや誤用でも容赦しない。でも、これは何か間違った「特権意識的失語症」であるように思えて仕方ない。ことばやものごとの理解は多様だし、いろんな段階がある。みんな科学に憧れを抱いているから、自分なりの理解を何か言ってみたい。それを細かいことで間違いを指摘され叱られ続けたら、そんな人の話に耳を傾けたくなくなるし、心の中ではそんな奴いなくなればいい、と思うだろうし、税金でそいつらを食わしていくことに腹がたってくるだろう。

 なるほど。「特権意識的失語症」というのが何を意味するのかは分からないけれども、多分、こと”科学”を語るにあたっては、寛容の精神が大切という主張なのだろうなぁ。でも、一人の凡庸な科学者として、私は科学者ではない市民が須く

それを細かいことで間違いを指摘され叱られ続けたら、そんな人の話に耳を傾けたくなくなるし、心の中ではそんな奴いなくなればいい、と思うだろうし、税金でそいつらを食わしていくことに腹がたってくるだろう。

と言う反応をするほどに狭量だとは思わない。誰でも間違いを指摘されればその分、前よりも少し賢くなれるだろう。たいていの人は、”話せば分かる”。ましてや、ある科学者が会話した普通の市民から「そんな奴いなくなればいい」とまで頻繁に思われるようでは、それはもう”凡庸な科学者”という水準ではなく、一種”非凡な科学者”ではないかと思う(できればそのように非凡な科学者ではありたくないものだ)。

 私は科学の用語やそれによって表される概念は正確であるに超したことはないと思う。一方で私はしばしば学術論文の中でさえ術語が多義的に使われるところに出くわすことがある。専門家の間では、そのような多義性さえもアウンの呼吸で乗り越えられるのだろうけれども、非専門家を相手にそれを要求するべきではないだろう。

 しかし、術語の多義性を放置したままで議論が進むと、結局のところ結論の一致を見たのか見なかったのか、話がだんだん曖昧になる。これは、科学に限ったことではない (例えば、”5月末 決着 定義”で検索すると明らかなように、”決着”と言う言葉で表される内容があらかじめ定義されていなかったために、形式論理的に結論を出せない議論になってしまっている実例もある)。だから、対話を進める上で差し支えのない範囲であれば、概念のずれやちょっとした勘違いまで、いちいち正す必要はないと思う。けれども、どうしても正確でなくてはいけない術語についてはきちんと定義しておかなくてはならないとも思う。

 ところで、小島先生の言うように、間違いや誤用の指摘=「説教」という図式が成り立つことがあるとすれば、その原因は科学者の語る話の内容ではなく、むしろ、その語法や文体(デリダの言うエクリチュ-ルとかでしょうかね)のあり方にある様に思う。「説教」もまた、対話に似たコミュニケーションの一つのありようではあるけれども、少なくとも対称な双方向のコミュニケーションではないし、ましてや対話ではない。

 おそらくこの先の主張は誰かが既に言ったことの同義反復になると思うのだけれども、私は、何かを理解すると言うことは、自分が見聞きしたことを自分なりの表現方法で再構成できるということだと考えている。だから、自分が語ったことが消化された上で対話する相手の口から再構築されて出てくるのを聞けば、自分の話が伝わったのだと楽しくなる。そのやりとりの結果ではなく、過程こそが大切なのだと思う。

 私は、相手の言ったことが少々学術的には不正確でもすぐに否定することはしないように心がけている。傾聴して一端受け止め、少し表現を変えつつ、そして少しでも正確になるように言い直す。それを何度も繰り返していると、同義反復からの若干のずれで何とか軌道修正できる・・・こともある。できるだけ辛抱強く、丁寧に。それが、一人の凡庸な科学者としての私にできるささやかな対話の有り様だと思うのだ。

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2010年5月 5日 (水)

○○は実在しない -構造構成的毒劇物考-

 表題は、岩田健太郎さんの「感染症は実在しない -構造構成的感染症学」(ISBN-13: 978-4762826962)へのオマージュです。この本はとても刺激的な表題ですが、言わんとするところを理解にするには、”実在”と”構造構成的”とがキーワードになっています。私は”構造構成主義”や”実在”を正確に伝える資質を持っておりませんので、この件についてはコメントはしません。

 ところで、同じような前提に立って世間を眺めてみると、あるものの見方に立つと、観察する者とは独立な存在でないモノ・コトが、他のモノ・コトから恣意的な基準で区別されている状況があふれています。たとえば、

  • 理系/文系は実在しない (学生生活を海外で終えた場合や、高卒までの学歴の場合はどうなの?と言いたい。これも日本にしかない分類。)
  • 研究者は実在しない (研究をしていれば研究者か?じゃぁ、研究していないときは何者?何年研究していないと研究者ではなくなる?)
  • 医師は実在しない (海外で医師の資格があってもそれだけでは日本国内で”医師”になれない。医師法に従って登録されれば"医師"なのだが、日本限定。)
  • カルタヘナ法で言う生物は実在しない (細胞を持つ、いわゆる生物+ウイルス+ウイロイド="生物"。ただし、個体の一部は生物でない。カルタヘナ議定書締約国以外には適用されない分類。)
  • 麦は実在しない (オオムギ、ハダカムギ、コムギをまとめて三麦と呼ぶのは科学的にはナンセンス。オオムギ(その部分集合であるハダカムギ)とコムギは種が違う。しかも、燕麦やライ麦まで一緒にまとめる分類法はある意味すごい)
  • 生物の"種"は実在しない (生物多様性を考える際の概念的なツールとしては、固定的な種よりも境界の緩やかなジーンプールの方がより便利だと思う)
  • 品種は実在しない (在来品種や種苗法の登録品種は、他の"品種"との表現型の識別性に基づいて区別される。合成品種のように遺伝的にわざわざ幅を持たせた"品種"まである。生物学的な本質論から言えば、遺伝子型の違いこそが重要。)
  • 毒物・劇物は実在しない (物質の毒性にかかわらず毒劇法のポジリストに乗るなり毒劇物になる。日本限定。※ 毒劇法で指定された物質に毒性があることは当然として、指定されていない毒性物質もまた沢山あるという意味では恣意的。)
  • 肥満は実在しない (有無を言わさずBMI 25以上は肥満という恣意的尺度。しかも日本限定。まぁ、太ってるかどうかはわかるけどね。)

・・・etc. いずれも、"実在"はしないモノ・コトですが、現実の社会において何某かの"操作"を行うことを意図すると、あるモノ・コトを他のモノ・コトと区別できると便利なので(あるいは、便利だと広く考えられているので?)、このような恣意的な区別が容認されているのでしょう。これは、科学哲学で言う操作可能性(manipulability)を担保することの方が、モノ・コトが"実在"するかどうかよりも重要だと考えるきわめてプラグマティズム的な態度といえるのかもしれません。

 もし自分がガン患者になった場合を考えれば、「ガンは実在しない」という医師よりは、まずは重粒子線をあてるなり切るなり抗ガン剤を投与するなり、治療のベストプラクティスを模索する医師の方を選ぶでしょうからね。

 ところで、だとすると恣意的な基準であるところの理系/文系の区別は何の役にたつのだろう?

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