日本のナレッジ・ワーカーに将来はあるか?
私は経営学には暗いのだが、ナレッジ・ワーカー(knowledge worker、知識労働者)という言葉は、ピーター・ドラッカーの造語らし いということは辛うじて知っている。意味は、
The term was first coined by Peter Drucker ca. 1959, as one who works primarily with information or one who develops and uses knowledge in the workplace.
この定義によれば、研究者、技術者、経営者、官僚、政治家等がナレッジ・ワーカーに含まれることになる。以下、ドラッカーの著書を引用する。
しかもいまや知識労働者は、アメリカ、ヨーロッパ、日本など高度の先進社会が、国際競争力を獲得し、維持するための唯一の生産要素である。
これは、特にアメリカについて言える。アメリカが国際競争力を持ちうる唯一の資源が教育である。アメリカの教育は理想にはほど遠い。しかし、たの貧しい国よりははるかに進んでいる。教育は、最も高価に付く投資である。自然科学の博士号には、一人につき10万ドルから20万ドルの社会投資を必要とする。そのようなものは、きわめて豊かな社会でなければ手に入れられない。
したがって、教育は、知識労働者の生産性さえ確保できれば、最も豊かな国であるアメリカが真の優位性をもちうる唯一の領域である。そして知識労働者の生産性とは、なすべきことをなす能力のことである。成果を上げることである。ピーター・ドラッカー著、上田惇生訳「経営者の条件」、ダイヤモンド社 p. 22
この本が最初に出版されたのは1967年、昭和42年である。当時アメリカに住んでいた経営学者(出身はオーストリア)の目から見て、「アメリカが国際競争力を持ちうる唯一の資源が教育である。」と指摘したことに、私は大きな違和感を覚える。日本と比較すれば、今日のアメリカは広大な国土を持ち、鉱物資源は豊富で、農業生産性は今や非常に高い。その相対的な関係は40年以上前とさほど変わっていないだろう。
それでもなお、この高名な経営学者は「アメリカが国際競争力を持ちうる唯一の資源が教育である。」と指摘していた。
翻って、では今日の我が日本はどうなのだ?と考えてみると、広大な国土を持たず、鉱物資源に乏しく、農業生産性はお世辞にも高いとは言えない。40年以上前のアメリカと比較して、こうまでも恵まれていない今日の日本が「国際競争力を獲得し、維持するための唯一の生産要素」は、40年以上前と同様に、やはりナレッジ・ワーカーではないのだろうか?
この文章なのかで興味深いもう一つの点は、ドラッカーが国際競争力の礎となる教育に対する投資の例(あるいは、資源としての知識労働者の代表)として挙げたものが、「自然科学の博士号」であった点である。我が国は、今や高等教育に対する社会投資を削減しようとしており、しばらく前から「自然科学の博士号」を持った人材の就職難が社会問題となってさえ居る。
あるいは、今日の日本はドラッカーが40年以上前に予想した社会の未来像をはるかに超えて、「自然科学の博士号」を持った人材が普く社会に行き渡り、その結果余剰になっているのだろうか?私はそうは思わない。残念なことに、日本は貴重な資源の適切な使い方を知らないまま浪費しつつあり、しかもその再生産能力さえも失いつつある様に思う。なぜならば、知識労働者となりうる人材は「きわめて豊かな社会でなければ手に入れられない」ものであり、日本はそのための社会投資の余裕を失いつつあるのだから。
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