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2010年5月30日 (日)

科学との不適切な関係?

 私は日々科学と付き合っている。大学は農学部出身、農学系の大学院を出て19年ほど農学系の研究所で研究者として働いているので、科学と付き合っている自覚のあまりない方々から見れば私は科学の「中の人」ということになるでしょう。しかし、正直なところ、いまだに「科学との正しい付き合い方」が良くわからずに、日々おろおろしています。長いお付き合いになるのに程良い距離感というのは、いまだになかなか難しいのですが、どう難しいのか、なぜ難しいのかを追々書きます。それは科学を飯の種にしてしまった故の難しさでもあります。

 さて、表題の「科学との正しい付き合い方」ですが、ちょっと言い方を変えてみると「私と科学との適切な関係」という言い方が出来るかもれません。一方に「私と科学との適切な関係」があれば、他方には「私と科学との不適切な関係」があるのでしょう。「不適切な関係」と聞くと、私はなんとなくドキドキしてしまうのだけれど・・・。

ちょっとした違和感

 冗談はさておき、内田真理香さんの著書「科学との正しい付き合い方 -疑うことからはじめよう-」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読み終えたところ。この本は、科学の専門家ではない人に向けて -おそらくは科学を自分とは縁遠いものと感じている人たちに向けて?- 書かれています。そして、この本の中級編で示される科学的な考え方とは、

  1. 答えが出せないことはペンディングする (p.112)
  2. 「わからない」と潔く認める (p.124)
  3. 人に聞くのを恥ずかしいと思わない (p.128)
  4. 失敗から学ぶ (p.131)

である、と簡潔にまとめています。

 たしかに。物事に取り組む姿勢としては妥当だと思います。でも、これは「科学的な考え方」というよりは、どちらかといえば「行動のルール」、あるいは「振る舞い方」です。これは調査した事実に基づいていない個人的な印象に過ぎませんが、もし科学者に向けて科学的な考え方とはどういうものかを質問すると、おそらく科学的方法か、でなければ演繹法・帰納法といった科学における推論の方法についての答えが返ってくるのではないでしょうか。そういう意味では、職業的科学者が日頃考える科学的なものの考え方と、内田さんの提案される科学的なものの考え方の間には若干の開きがあるように思います。

 ちなみに私の場合は、科学に取り組む際の行動のルールとしては、

  1. 仕事にかかる前に、解っていること、まだ解らないことをできるだけ整理する。(無制限に時間があるわけではないので、手早く入手できる範囲ですませる。問題の領域を特定する上で、どうしても必要)
  2. 仕入れた知識を鵜呑みにしない。自分の言葉で説明できるかどうか良く吟味する。 (きちんと説明できない間は、その知識は消化できていない)
  3. 常に複数の可能性を平衡して考えておく。 (研究が進むほど諸説紛々、統一見解無し、という領域に入っていく。)

というのを原則としています。判断できないものはペンディングする。そこは一緒ですが、どんな風にペンディングするのかに、それなりの流儀があります。というのも、判断を留保して宙づりにしておくのは結構疲れるので、宙づりの案件が多くなると”とりあえずどういう見方ができるか”を自分なりに整理して、頭の中の置き場所に仮置きしておく- 好き嫌いは別として、今のところこの考え方が無理がない -というふうに、”置き場所”を用意してからペンディングします。なんだか抽象的ですが、何かを”理解した”という気になる時には、常に”とりあえず、今のところはそう理解できる”という前提を忘れないという姿勢が肝心です。難しい言い方をすると、科学的な仮説が”教条”にならないために反証可能性を確保するということです。

 そういう意味では、内田さんの言う「疑う心」は科学の大前提というよりは、それが「科学的な考え方」そのものであるように思います。

ところで、その「科学」-science-って何?

 実は、「科学との正しい付き合い方」では、お付き合いする相手であるところの「科学」とは何なのかが提示されていません。わざとそうしたのかな?とも思うのですが、この本では「科学」の枠組みを示さないことによって、「科学」という言葉で色々な”こと”を指し示しています。

  • 初級編では、学校で教えられる理科(あるいは理科教育)を指して、科学という
  • 中級編では、科学技術基本法を引用して、国における行政的な文脈での科学技術を指して、科学という
  • 上級編では、人の営みとしてあるいは社会的活動としての科学技術を指して、科学という

ステップごとに「科学」の枠組みが大きくなっている様ですので、この本ではあえて「科学とは何者か」をことばで縛ることを避けて、作品世界の中で読者を引っぱっていくうちに、おのずと「科学」というものの様々な切り口を概観させてしまおうという意図があるのかもしれません。私のような科学の中の人からみると、一つの用語が多義的に使われている文章は若干気持ちが悪いのですけれども、その企てが上手くいくと良いですね。

 私が思うところ、人間の社会活動としての科学は、時代や国(文化圏?)によって担い手も、流儀も、経済的なあり方(主にスポンサー)も大きく違います。19世紀、チャールズ・ダーウインが「種の起源」の発想をえた5年間にわたるビーグル号の航海は、大英帝国の公費負担(一方、ウォレスは自腹)だったようですが、だからといって「その研究が国民生活の向上の役に立つのか」とは問われなかった様です。うらやましいほどおおらかな時代です。

 昨今は、事業仕分けなる一種の行政レビューで、スパコンの能力が世界一でなければいけないのか、二番目ではどうしていけないのか、という政治家の質問が取りざたされました。この質問も市民の感覚では尤もな話だとか、逆に科学者から言わせればマスコミがきちんと伝えないのがいけないだとか、様々な議論がなされました。その後ノーベル賞・フィールズ賞受賞者を集めた決起集会?が開かれ、その様子はこのエントリーで扱っている内田さんの著書でも次のように扱われています。

 そのとき、ある新聞社から以下のような質問が出ました。

「科学技術の大切さは誰しも理解していると思う。しかし、国民の素朴な疑問として、スパコンになぜ多額のお金がかかるのか?というものがある。これをどう説明しようと思うか?」

 それに対し、あるノーベル賞受賞者が「まず1つは、マスコミにもっとしっかりしてもらいたい」「メディアの力は大きい。メディアがもっと科学技術を理解しないと、国民には伝わらない」と。

 すると、会場で拍手が起こり、Twitterでの書き込みも「○○新聞社の記者 の質問に対する良い切り返しだ」という意見をはじめとして、賛同の嵐が・・・・・・。

 それだけならまだしも、「これは科学者の決起集会です!」 「科学者集団、蜂起!」などという熱い投稿まで。

 私は、twitterに次々と書き込まれるこの文字列を見て、背筋が寒くなるのを覚えました。

 その熱狂している様子が、まるで「科学教の狂信者集団」に見えたのです。 

(略)

 私は、そのノーベル賞受賞者が、「国民がスパコンの重要性をわからないのはマスコミが悪いせいだ。勉強不足だ」と言うのにはまったく納得がいきません。

 スパコンの予算の出所はどこでしょう?言うまでもなく税金です。科学に対する予算が削減されるからといって、ただ「お金をよこさないあなた方の理解力が足りない」「勉強不足だ」と叫んだところで、国民は納得するでしょうか。

 私の目から見ると、この風景は相当に違って見えました。政治家も集会に集まった科学者も、メディアもどっちもどっちという感じで、次のような議論のポイントがまったく欠落しているように思えました。

  1. まずスパコンの性能や予算については、前政権下で数年にわたって政策的、技術的な観点から必要な性能が論議されてきた。普通、コンピュータや実験機器の設計性能というか、仕様を決めてからそれにかかる予算を積算して予算要求をする。(審議会等の議事録があるでしょう?)
  2. 基本的に、政権が変わったということが、スパコンの必要とする性能を引き下げる根拠にはならないので、予算を減額する理由はない(それをいきなり素人同士の議論で必要性やコストの話を決着させるのは無理)。
  3. スパコン等装置の性能は、絶対性能を示す指標で議論されるべき(スパコンであれば様々な利用側面での計算速度)。実は、条件さえ整っていれば世界二位でも何ら問題ない。要は当初想定した設計性能が実現できれば良いので、いずれ寿命を迎える地球シミュレーターに代替して、日本の科学界の必要とする計算機環境を提供できるはず。一位とか二位という相対的な順位は技術的にはまったく無意味(・・・ではあるが、どういう訳か役所は世界初とか世界一が好き)。

 事業仕分けで積極的に発言していたのは、装置の仕様にコメントするべき計算機科学の専門家ではありませんし、そのあとの決起集会に集まった科学者はスパコンのユーザーあるいは潜在的ユーザーであって、やはり装置の絶対性能にコメントできる立場にない人達でした(というか、専門分野の外のことには責任を持って議論する能力がない)。ましてや”どうして二番では”・・・と空疎な議論を報じていたマスコミは、問題の所在さえ理解できていません。

 かくいう私も計算幾何学については素人ですが、議論の内容を聞いて事実関係と照らし合わせれば”誰に当事者たるべき能力がないか”は見て取れます。一連の事業仕分けと、その後の集会では、装置の仕様、性能、コストの問題は一切なされて居ないわけですから、本質的な問題については科学的・技術的な側面から議論できていないのは自明です。要は、事業仕分けもその後の集会も、装置の仕様の妥当性や絶対的なコストパフォーマンスを議論する能力のない素人が空騒ぎをしていただけのことであって、科学的な議論とは最も遠いものでした。それは、議論の参加者がノーベル賞受賞者であっても同じことで、専門分野の外では普通の人でしかありません。

 そんなわけで、一連の騒動はたしかに科学への投資に関わる話ではあったのですが、私にはあの騒動を見ることによって、科学の何かがわかるようになるとはどうしても思えないのです。

 では、「科学」って一体何なんでしょうね?私個人にとっては、それは”自然現象を理解しようとする試み”に他なりません。実験する、観察する、論文を読む、ネットで調べる、他人と討論する、ひとりで考えをまとめて計算したり図表や文章にする、それを発表する・・・考えてみるとこれまでの私の生活中での中心的な位置を占めてきました。この他に、申請書を書く、計画書を書く、報告書を書く、調査票を書く、メールを書く、など、研究そのものではないけれど「科学」を支えるのに必要な活動もあります。この他、音楽を聴く、専門分野以外の本を読む、テレビを見る、ゲームで遊ぶ、などなど、食う・寝る・遊ぶという普通の生活もありますが、日常生活の大部分の時間を”科学する”ことに投入している点が、職業的科学者と科学者以外の一般市民との生活の違いです。私にとっては”科学的な考え方”は抜きがたく身に染みついた第二の習性とも言うべきもので、それ以外にどんな考え方があり得るのかと訝しむほどです。これはもう、科学との不適切な関係・・・なのかもしれません。

 そういう個人的な日々の営みの中の科学も、Spring-8や実験炉もんじゅを動かしたり、国際宇宙ステーションを運用して実験を行うbig scienceもまた、同じように科学という一つのことばで言い表されます。科学ということばは使われる文脈に依存して大きく意味が変わるものですから、私は科学の門外漢の方々に科学の必要性・重要性を説くときには、今、どの水準の科学について話しているのかを明らかにした方が話が分かり易いのではないかと思います。

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