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2010年5月の記事

2010年5月31日 (月)

酪酸の経皮毒性は結構馬鹿にならない

ノルマル酪酸の毒性は実は結構強い。

「酪酸は無害と説明を受けた」公判で元船長

 南極海で調査捕鯨をしていた捕鯨船団の監視船「第2昭南丸」に侵入したなどとして、艦船侵入や傷害など五つの罪に問われた反捕鯨団体「シー・シェパード」の元船長、ピーター・ベスーン被告(45)の第3回公判が31日、東京地裁(多和田隆史裁判長)であった。

 ベスーン被告は弁護側の被告人質問で、昭南丸に酪酸入りのガラス瓶を発射して乗組員にけがを負わせたとされる点について、「シー・シェパード側から『酪酸は人体に無害だ』との説明を受けており、けがを負わせるつもりはなかった」と述べ、改めて傷害罪について無罪を主張した。

 多和田裁判長は冒頭、ベスーン被告に「団体の主義主張を述べたり、調査捕鯨を討議したりする場ではない。裁判に関係ないことを述べれば、供述を制限することがある」と宣告した。

(2010年5月31日14時56分  読売新聞)
安全衛生情報センターの公表しているデータシートによれば、ノルマル酪酸の急性毒性は次の通り。
急性毒性
経口ラットのLD50の報告が3件あり (2000, 2940, 8790 mg/kg)、いずれも2000mg/kg以上(PATTY (5th, 2001))によりJIS分類基準の区分外(国連GHSの区分5)とした。
経皮ウサギのLD50の報告が2件あり、危険性の高い方のデータ 530 mg/kg (PATTY (5th, 2001))を採用し、区分3とした。
吸入吸入(ガス): GHSの定義における液体である。
 吸入(蒸気): ラットを飽和蒸気(25℃で2170ppm)に8時間(4時間換算3069ppm)吸入ばく露しても死亡例なし(PATTY (5th, 2001))との報告があるが、LC50値が不明であり、区分が特定できないことから分類できない。
 吸入(ミスト): データなし
皮膚腐食性・刺激性List 1 (PATTY (5th, 2001))にウサギの試験でsevere irritant、 List 2 (IUCLID (2000)にウサギの試験((OECD Guide-line 404)でcorrosiveの報告がある。EUはR34に分類している。
眼に対する重篤な損傷・刺激性ウサギの試験で severe corneal burns (PATTY (5th, 2001))の報告があり、皮膚腐食性/刺激性で区分1に分類している。

 経皮毒性の区分3というのは半数致死量が、200 mg/kg以上1000 mg/kgの範囲にあるものを指す。ノルマル酪酸の場合はすでにウサギのデータが示されており、530 mg/kgとのこと。おとなのウサギの体重を約3.5 kgとすると、一頭あたり1.86 gの投与量で半数が死に至る。ノルマル酪酸の比重は約0.959とのことなのでほぼ水と一緒。

 つまり、わずか2mlの投与でウサギ1頭の死ぬ確率はほぼ50%である。単純な構造の有機酸ではあるけれど、この毒性は軽視できない。ヒトに対する急性毒性の程度や作用機序は分からないが、もし同程度であれば体重60 kgのヒトに対しては32 mlでLD50に達する可能性はある。
 また、皮膚腐食性や刺激性もあるので、目に入った場合も無事では済まない。こちらは種差は小さいのでウサギのデータをそのまま適用して良いだろう。

 どの程度の濃度のノルマル酪酸が使用されたのかは分からないが、無害だと信じていたとしても、他人に対して意図的に使用して、その結果傷害を負わせたのであれば危害を与えた結果責任を免れないと見た方がよい。

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2010年5月30日 (日)

科学との不適切な関係?

 私は日々科学と付き合っている。大学は農学部出身、農学系の大学院を出て19年ほど農学系の研究所で研究者として働いているので、科学と付き合っている自覚のあまりない方々から見れば私は科学の「中の人」ということになるでしょう。しかし、正直なところ、いまだに「科学との正しい付き合い方」が良くわからずに、日々おろおろしています。長いお付き合いになるのに程良い距離感というのは、いまだになかなか難しいのですが、どう難しいのか、なぜ難しいのかを追々書きます。それは科学を飯の種にしてしまった故の難しさでもあります。

 さて、表題の「科学との正しい付き合い方」ですが、ちょっと言い方を変えてみると「私と科学との適切な関係」という言い方が出来るかもれません。一方に「私と科学との適切な関係」があれば、他方には「私と科学との不適切な関係」があるのでしょう。「不適切な関係」と聞くと、私はなんとなくドキドキしてしまうのだけれど・・・。

ちょっとした違和感

 冗談はさておき、内田真理香さんの著書「科学との正しい付き合い方 -疑うことからはじめよう-」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読み終えたところ。この本は、科学の専門家ではない人に向けて -おそらくは科学を自分とは縁遠いものと感じている人たちに向けて?- 書かれています。そして、この本の中級編で示される科学的な考え方とは、

  1. 答えが出せないことはペンディングする (p.112)
  2. 「わからない」と潔く認める (p.124)
  3. 人に聞くのを恥ずかしいと思わない (p.128)
  4. 失敗から学ぶ (p.131)

である、と簡潔にまとめています。

 たしかに。物事に取り組む姿勢としては妥当だと思います。でも、これは「科学的な考え方」というよりは、どちらかといえば「行動のルール」、あるいは「振る舞い方」です。これは調査した事実に基づいていない個人的な印象に過ぎませんが、もし科学者に向けて科学的な考え方とはどういうものかを質問すると、おそらく科学的方法か、でなければ演繹法・帰納法といった科学における推論の方法についての答えが返ってくるのではないでしょうか。そういう意味では、職業的科学者が日頃考える科学的なものの考え方と、内田さんの提案される科学的なものの考え方の間には若干の開きがあるように思います。

 ちなみに私の場合は、科学に取り組む際の行動のルールとしては、

  1. 仕事にかかる前に、解っていること、まだ解らないことをできるだけ整理する。(無制限に時間があるわけではないので、手早く入手できる範囲ですませる。問題の領域を特定する上で、どうしても必要)
  2. 仕入れた知識を鵜呑みにしない。自分の言葉で説明できるかどうか良く吟味する。 (きちんと説明できない間は、その知識は消化できていない)
  3. 常に複数の可能性を平衡して考えておく。 (研究が進むほど諸説紛々、統一見解無し、という領域に入っていく。)

というのを原則としています。判断できないものはペンディングする。そこは一緒ですが、どんな風にペンディングするのかに、それなりの流儀があります。というのも、判断を留保して宙づりにしておくのは結構疲れるので、宙づりの案件が多くなると”とりあえずどういう見方ができるか”を自分なりに整理して、頭の中の置き場所に仮置きしておく- 好き嫌いは別として、今のところこの考え方が無理がない -というふうに、”置き場所”を用意してからペンディングします。なんだか抽象的ですが、何かを”理解した”という気になる時には、常に”とりあえず、今のところはそう理解できる”という前提を忘れないという姿勢が肝心です。難しい言い方をすると、科学的な仮説が”教条”にならないために反証可能性を確保するということです。

 そういう意味では、内田さんの言う「疑う心」は科学の大前提というよりは、それが「科学的な考え方」そのものであるように思います。

ところで、その「科学」-science-って何?

 実は、「科学との正しい付き合い方」では、お付き合いする相手であるところの「科学」とは何なのかが提示されていません。わざとそうしたのかな?とも思うのですが、この本では「科学」の枠組みを示さないことによって、「科学」という言葉で色々な”こと”を指し示しています。

  • 初級編では、学校で教えられる理科(あるいは理科教育)を指して、科学という
  • 中級編では、科学技術基本法を引用して、国における行政的な文脈での科学技術を指して、科学という
  • 上級編では、人の営みとしてあるいは社会的活動としての科学技術を指して、科学という

ステップごとに「科学」の枠組みが大きくなっている様ですので、この本ではあえて「科学とは何者か」をことばで縛ることを避けて、作品世界の中で読者を引っぱっていくうちに、おのずと「科学」というものの様々な切り口を概観させてしまおうという意図があるのかもしれません。私のような科学の中の人からみると、一つの用語が多義的に使われている文章は若干気持ちが悪いのですけれども、その企てが上手くいくと良いですね。

 私が思うところ、人間の社会活動としての科学は、時代や国(文化圏?)によって担い手も、流儀も、経済的なあり方(主にスポンサー)も大きく違います。19世紀、チャールズ・ダーウインが「種の起源」の発想をえた5年間にわたるビーグル号の航海は、大英帝国の公費負担(一方、ウォレスは自腹)だったようですが、だからといって「その研究が国民生活の向上の役に立つのか」とは問われなかった様です。うらやましいほどおおらかな時代です。

 昨今は、事業仕分けなる一種の行政レビューで、スパコンの能力が世界一でなければいけないのか、二番目ではどうしていけないのか、という政治家の質問が取りざたされました。この質問も市民の感覚では尤もな話だとか、逆に科学者から言わせればマスコミがきちんと伝えないのがいけないだとか、様々な議論がなされました。その後ノーベル賞・フィールズ賞受賞者を集めた決起集会?が開かれ、その様子はこのエントリーで扱っている内田さんの著書でも次のように扱われています。

 そのとき、ある新聞社から以下のような質問が出ました。

「科学技術の大切さは誰しも理解していると思う。しかし、国民の素朴な疑問として、スパコンになぜ多額のお金がかかるのか?というものがある。これをどう説明しようと思うか?」

 それに対し、あるノーベル賞受賞者が「まず1つは、マスコミにもっとしっかりしてもらいたい」「メディアの力は大きい。メディアがもっと科学技術を理解しないと、国民には伝わらない」と。

 すると、会場で拍手が起こり、Twitterでの書き込みも「○○新聞社の記者 の質問に対する良い切り返しだ」という意見をはじめとして、賛同の嵐が・・・・・・。

 それだけならまだしも、「これは科学者の決起集会です!」 「科学者集団、蜂起!」などという熱い投稿まで。

 私は、twitterに次々と書き込まれるこの文字列を見て、背筋が寒くなるのを覚えました。

 その熱狂している様子が、まるで「科学教の狂信者集団」に見えたのです。 

(略)

 私は、そのノーベル賞受賞者が、「国民がスパコンの重要性をわからないのはマスコミが悪いせいだ。勉強不足だ」と言うのにはまったく納得がいきません。

 スパコンの予算の出所はどこでしょう?言うまでもなく税金です。科学に対する予算が削減されるからといって、ただ「お金をよこさないあなた方の理解力が足りない」「勉強不足だ」と叫んだところで、国民は納得するでしょうか。

 私の目から見ると、この風景は相当に違って見えました。政治家も集会に集まった科学者も、メディアもどっちもどっちという感じで、次のような議論のポイントがまったく欠落しているように思えました。

  1. まずスパコンの性能や予算については、前政権下で数年にわたって政策的、技術的な観点から必要な性能が論議されてきた。普通、コンピュータや実験機器の設計性能というか、仕様を決めてからそれにかかる予算を積算して予算要求をする。(審議会等の議事録があるでしょう?)
  2. 基本的に、政権が変わったということが、スパコンの必要とする性能を引き下げる根拠にはならないので、予算を減額する理由はない(それをいきなり素人同士の議論で必要性やコストの話を決着させるのは無理)。
  3. スパコン等装置の性能は、絶対性能を示す指標で議論されるべき(スパコンであれば様々な利用側面での計算速度)。実は、条件さえ整っていれば世界二位でも何ら問題ない。要は当初想定した設計性能が実現できれば良いので、いずれ寿命を迎える地球シミュレーターに代替して、日本の科学界の必要とする計算機環境を提供できるはず。一位とか二位という相対的な順位は技術的にはまったく無意味(・・・ではあるが、どういう訳か役所は世界初とか世界一が好き)。

 事業仕分けで積極的に発言していたのは、装置の仕様にコメントするべき計算機科学の専門家ではありませんし、そのあとの決起集会に集まった科学者はスパコンのユーザーあるいは潜在的ユーザーであって、やはり装置の絶対性能にコメントできる立場にない人達でした(というか、専門分野の外のことには責任を持って議論する能力がない)。ましてや”どうして二番では”・・・と空疎な議論を報じていたマスコミは、問題の所在さえ理解できていません。

 かくいう私も計算幾何学については素人ですが、議論の内容を聞いて事実関係と照らし合わせれば”誰に当事者たるべき能力がないか”は見て取れます。一連の事業仕分けと、その後の集会では、装置の仕様、性能、コストの問題は一切なされて居ないわけですから、本質的な問題については科学的・技術的な側面から議論できていないのは自明です。要は、事業仕分けもその後の集会も、装置の仕様の妥当性や絶対的なコストパフォーマンスを議論する能力のない素人が空騒ぎをしていただけのことであって、科学的な議論とは最も遠いものでした。それは、議論の参加者がノーベル賞受賞者であっても同じことで、専門分野の外では普通の人でしかありません。

 そんなわけで、一連の騒動はたしかに科学への投資に関わる話ではあったのですが、私にはあの騒動を見ることによって、科学の何かがわかるようになるとはどうしても思えないのです。

 では、「科学」って一体何なんでしょうね?私個人にとっては、それは”自然現象を理解しようとする試み”に他なりません。実験する、観察する、論文を読む、ネットで調べる、他人と討論する、ひとりで考えをまとめて計算したり図表や文章にする、それを発表する・・・考えてみるとこれまでの私の生活中での中心的な位置を占めてきました。この他に、申請書を書く、計画書を書く、報告書を書く、調査票を書く、メールを書く、など、研究そのものではないけれど「科学」を支えるのに必要な活動もあります。この他、音楽を聴く、専門分野以外の本を読む、テレビを見る、ゲームで遊ぶ、などなど、食う・寝る・遊ぶという普通の生活もありますが、日常生活の大部分の時間を”科学する”ことに投入している点が、職業的科学者と科学者以外の一般市民との生活の違いです。私にとっては”科学的な考え方”は抜きがたく身に染みついた第二の習性とも言うべきもので、それ以外にどんな考え方があり得るのかと訝しむほどです。これはもう、科学との不適切な関係・・・なのかもしれません。

 そういう個人的な日々の営みの中の科学も、Spring-8や実験炉もんじゅを動かしたり、国際宇宙ステーションを運用して実験を行うbig scienceもまた、同じように科学という一つのことばで言い表されます。科学ということばは使われる文脈に依存して大きく意味が変わるものですから、私は科学の門外漢の方々に科学の必要性・重要性を説くときには、今、どの水準の科学について話しているのかを明らかにした方が話が分かり易いのではないかと思います。

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2010年5月28日 (金)

パブコメの順序

 最近、所属学会関係のメーリングリストなどで総合科学技術会議の意見募集に意見を寄せて欲しいというリクエストが相次いでいる。今日の正午締め切りだったのが、

  • 科学・技術予算編成プロセス改革「アクション・プラン」(案)に関する意見募集

で、昨日から意見募集が始められたのが、

  • 「科学技術基本政策策定の基本方針(案)」に関するご意見募集について

 これ、関係資料を見ると、どう考えても「科学技術基本政策策定の基本方針」があって、それに沿って具体を決めるための手続き(プロセス)の一部としての「アクション・プラン」があるようにしか見えません。であれば、意見募集の順番が逆じゃ無いでしょうかね。私、「基本方針(案)」の概要を見るまで、「アクション・プラン」&「グリーン・イノベーション、ライフ・イノベーション」の位置づけがわかりませんでした。なんだかつまらない意見を書いてしまってがっかりしている。

 今回、意見募集で意見を寄せた多くの人が誤解してるんじゃないでしょうかね。

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2010年5月27日 (木)

改良普及員さんに”ケシ”の鑑別を依頼するべきではありません

 色々な間違いが重なった結果がこれですね。毎日新聞より。神奈川県職員の方も、このblogを見ているかもしれませんが、あへん法規制対象のケシの栽培は毎年のようにあちこちで起きているので採り上げます。

ケシ栽培:神奈川県が「問題なし」と誤指導 藤沢の農家に

 あへん法で無許可栽培が禁じられているケシについて、神奈川県農業技術センターが藤沢市の農家に「栽培に問題はない」と誤った指導をしていたこと が分かった。県が26日明らかにした。この農家は観賞用に722株を栽培し、うち約400株を7都県に出荷したという。県や厚生労働省などが回収と調査を 進めている。

 県によると、農家はセンターに栽培が可能か相談。普及指導員が葉の形などから「栽培できないケシではない」と判断。しかし東京都から「花が法に抵触する可能性が高い」との情報が寄せられ、ソムニフェルム種と判明した。【木村健二】

 記事の書きぶりは別として、本質的には以下のような問題点だろうと思います。

  1. まず、アヘン原料になるケシの栽培についての規制は、厚生労働大臣所管の”あへん法”で行われているので、栽培に問題ないかどうか農家が照会するべき窓口は保健所。農業技術センターに問い合わせたのは間違い。
  2. 次に、普及員も、規制法がある植物なので(その確認のために農家は照会した)、県の担当部署に自らつなぐのが筋。県職員も処理する責任能力を持たない分野について独断で対応してはいけない。
  3. その上、種の同定をし損なった。どの種か判断できない場合は率直に”わからない”と言うべき。科学的には、情報が足りなくて判断できない場合や自分の判断する能力に確信が持てない場合には、結論を保留するべき。

 他社の報道によれば、対応した県職員は「厚生労働省ホームページを参考にした」とのことなので、1.,2.の間違いは避けられたはずなのですが・・・。今後公表されるであろう神奈川県の再発防止策に期待しましょう。

 なお、報道各社から、職員が栽培を禁止されているケシだと見抜けなかったとか、県が判断を誤って指導したという論調のニュースが報道されています。ですが、普通の改良普及員はケシの種の同定はできません。そのためのトレーニングを積んでいないのですから当たり前です。また、農学や植物科学系の研究者でも普通はケシの種の同定はできませんし、その鑑別結果に責任を負える立場でもありません。

 また、NHKニュースによれば、

けし栽培 再発防止策を検討へ

神奈川県の農業技術センターが農家に誤った指導を行い、麻薬の原料になるとして栽培が禁止されているけしを農家が栽培して出荷していた問題で、神奈川県は、大学の研究者などの専門家に違法なけしがどうかチェックしてもらうなどの再発防止策を検討することになりました。

 え?保健所で判断するんじゃないの?「大学の研究者などの専門家」って農学系ではなく、薬学系だよね?専門家の意見を参考にするのは良いけれど、最終的な判断は県の責任で行うんだよね?・・・等々疑問山積。

 ともあれ、今回の件も種の同定がどうの、と言う視点よりは、「あへんの成分を含むケシ」の種子が各国では規制対象とされずにヨーロッパを中心に世界中で普通に流通しているという現状をどう考えるか?と言うところから発想した方が良いように思います。私は、あへんが入手できるように誰でも自由にケシを栽培できるようにするべきだとは決して思いません。しかし、もしかすると、日本では世界的なケシの栽培規制と比べて、あへん法の規制するケシの範囲を幅広くとりすぎているのではないだろうか?という疑問はあります。

 植物から薬効成分を抽出する場合、最終製品の価格を考えると、原材料となる植物に含まれる成分の含有量がある程度高くなければ抽出・精製のコストがまかなえません。ケシの場合は、最終製品はあへん(阿片)かモルヒネですが、悪用される恐れがあるのはあへんかモルヒネの加工品であるヘロインでしょう。あへんは、ケシの実(ケシ坊主)の表面に傷をつけて出てきた滲出液を風乾しただけのものなので、精製のコストはかかりませんから、そこに含まれるモルヒネ含有量が低水準でも採算がとれてしまう恐れはなきにしもあらず。

 でも、規制対象となっている園芸種についても、本当に問題とされるほど高品位のモルヒネが含まれているのでしょうか?法律で規制されているケシを栽培してはいけないという点には私は全面的に同意します。しかし、規制対象の選定の基準を種で限定するのが科学的に妥当かどうか、という点については少々疑問があります。

 もっと、繊維製品の原材料になるアサ=大麻の場合、陶酔成分を含まない品種であっても、その栽培はそれ以外の品種と同様に大麻取締法で規制されています(許可制)ので、麻薬成分を含む可能性が排除できないケシについてはデフォルトで規制対象とするのが行政的には妥当なのでしょうね、多分。

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2010年5月26日 (水)

ここは「死の谷」はたまた「ダーウィンの海」?

1プラス1はいくつになりますか?という質問。

「1プラス1はいくつか」と聞けば、その人の職業が分かる。
「2に決まっている」と答えたら、技術者である。
「2になると言う人が多いです」と答えたら、セールスマンである。
「2以上でないと意味がない」と答えたら、経営者である。
「いくつをお望みですか」と答えたら、経営コンサルタントである。
天使と悪魔のビジネス用語辞典より)

コンピュータ技術者によれば10になります(2進法では)。

 ともあれ、今日、初めて”ダーウィンの海”というビジネス用語を知りました。英語では"Darwinian sea"と言うらしいのですが、その意味は、

研究開発を経てようやくそれが実用化に至って(死の谷)も、その技術・製品・事業には市場での競争が待っています。既存製品との競争です。

おまけに新製品は、販路や生産設備がまだ確立されていません。それに資金や時間などのコストを費やすことになります。

この様に、新たな技術・製品・事業が市場で生き残っていく難しさを表現した言葉が、「ダーウィンの海」です。

イノベーションを実現しようとするベンチャー企業に多く見られる関門です。

転がるビジネス社会の基礎知識:: ビジネス用語辞典

 うーん、生存競争にさらされている状態という意味であれば、「ダーウィンの海」というのは誤訳ですね。だって"Darwinian (ダーウイン主義者、進化論者)"だし。直訳でも、「ダーウイン主義者の海」か「進化論者の海」、意訳すれば「生存競争の海」か「弱肉強食の海」といったところでしょう。

# 進化論を支持する人たちがウヨウヨ居て、海のようになっている状態では無いと思います。多分。

 ともあれ、「死の谷」の谷底でも住み着いてしまえばそれなりの過ごし方があるようですけどね。

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2010年5月24日 (月)

ブロッコリには普通、黄色い花が咲く

 家庭菜園用のブロッコリの種子をどのように入手したのか興味が持たれる記事。読売新聞より。

遺伝子組み換えナタネ、伊勢湾周辺に自生・交雑

 国内では栽培されていない遺伝子組み換えナタネ(GMナタネ)が、愛知県知多市から三重県松阪市にかけて、伊勢湾を取り囲むように自生していることが、「遺伝子組み換え食品を考える中部の会」の調査で分かった。

 名古屋、四日市港に輸入され、トラックで運ばれる途中にこぼれ落ちて発芽したとみられる。在来種との交雑種も見つかっており、同会は「交雑によって生態系がかく乱される危険性が高い」と指摘している。遺伝子組み換え植物の生態系への影響は、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)でも話し合われる。

 同会は2004年からGMナタネの調査をしており、三重県四日市市から松阪市にかけて国道23号などの沿線に点々と自生しているのを確認した。今年4月に調査範囲を愛知県にも広げたところ、知多市から飛島村までの国道、県道沿いで数十メートルおきに数株ずつ生えているのを見つけた。

 GMナタネは除草剤に耐性があり、カナダを中心に外国では主流。財務省貿易統計によると、昨年、植物油の原料として輸入されたナタネは約207万トン。名古屋、四日市港には計33万トンが運びこまれた。

 同会や国立環境研究所の調査では、ナタネと同じアブラナ科のカラシナやブロッコリーなどとの交雑種も見つかった。津市内では家庭菜園のブロッコリーにナタネのような黄色い花が咲き、遺伝子検査でGMナタネと同じ除草剤耐性を持つことが分かった。

 同会は河川敷などに繁殖しているセイヨウカラシナとの交雑を懸念する。すでに愛知県内で交雑のセイヨウカラシナが見つかっており、GMナタネを調査、研究している四日市大非常勤講師の河田昌東さんは、「生命力の強いセイヨウカラシナが交雑で除草剤耐性を持てば、一気に広がって在来の植物を駆逐してしまう。GMナタネの抜き取りなど、行政が対策を取る必要がある」と指摘する。

 同会は22日、名古屋市中村区の愛知県産業労働センターで調査結果を公表し、シンポジウムを実施する。

(2010年5月23日13時21分  読売新聞)
 日本に搾油用原料として輸入される遺伝子組換えナタネは、「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」(カルタヘナ法)に基づき、農林水産省と環境省の合同の生物多様性影響評価検討会によって、生物多様性への影響が評価されています。開発者から提供された科学的な情報に基づいて、日本の生態系に遺伝子組換え生物が定着した場合であっても、生物多様性のレベルでは生態系への影響が無いと推定された遺伝子組換え生物のみが輸入を許可される制度になっています。

 遺伝子組換えナタネについては、こちらでどのような評価が行われてきたのかが概観できます。組換えセイヨウナタネと近縁種との交雑の可能性や、交雑後代が優先的に繁殖して他の野生植物を駆逐する可能性についての開発者の評価に対する専門家の意見も、こちらの文書で公表されております。

 そして、評価結果を公表する際には、毎回必ずパブリックコメントの募集が行われており、誰でも評価結果に対して意見を述べることができます。もちろん、意見募集の結果も公表されますので、自分たちの述べた意見に対する官庁の対応も見ることができます。

 また、国立環境研究所では毎年、遺伝子組換えナタネの自生に関するモニタリング調査を実施しており、こちらで調査結果を公表しております。例えば昨年度の報告書はこちら。この報告書によると、遺伝子組換えセイヨウナタネがいわゆる雑草として日本に定着していると考えられますが、それは評価の段階で既に予想されたことです。ともあれ、報告書は一つの結論として次のように述べています。

除草剤耐性ナタネの商業栽培が盛んなカナダでは、栽培地の周辺等の自然条件において、西洋ナタネ由来の除草剤耐性遺伝子が在来ナタネに流動することが既に報告されている9)。今回、我が国での除草剤耐性遺伝子の在来ナタネへの流動が示唆される結果が得られたことから、今後は、雑種の生じる頻度や雑種の定着可能性などにも留意して調査・分析を行っていくこととする。なお、在来ナタネは、西洋ナタネより古くから日本で栽培されてきたナタネで、ヨーロッパ、ロシア、中央アジア及び中近東に自生し、ヨーロッパが起源の1つといわれている外来植物であり(OECD Consensus Document,1997)、日本産の野生植物ではない。

 すこし視野を広げてみると、国連の生物多様性条約事務局のカナダでは、遺伝子組換えナタネの大規模栽培が行われており、「西洋ナタネ由来の除草剤耐性遺伝子が在来ナタネに流動することが既に報告されている」とのことなので、もし市民団体の懸念する通りであれば、カナダではすでに「一気に広がって在来の植物を駆逐して」いても良さそうなものですが、カナダ政府も生物多様性条約事務局も特段、あわてている様子はありません。

 遺伝子組換え作物が交雑すると言うことと、在来の植物を駆逐するということは一緒ではありません。規制当局の判断としては、交雑による外来遺伝子の拡散があっても、それが大規模な生物多様性影響につながるものでなければ、遺伝子組換え作物を上手く利用して産業振興した方が国民の利益にかなうと考えるのが合理的なのですから。

 ともあれ、「家庭菜園のブロッコリーにナタネのような黄色い花が」・・・という一節には何の意味があるのでしょうか。ブロッコリには普通、ナタネと同じような黄色い花が咲くものですがね。

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2010年5月21日 (金)

細菌ゲノムの総とりかえ

2008年1月末に「細菌ゲノムの全合成」と言うエントリーを書きましたが、今回はその続続編が発表されました。

Daniel G. Gibson et al., “Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome,” Science (May 20, 2010): science.1190719.    

あらましは、次の新聞記事がよいでしょう。読売新聞より。

人工ゲノム使い細胞、「新生命体」への道も

 【ワシントン=山田哲朗】細菌のゲノム(全遺伝情報)を人工的に合成し、別の細菌に移植して働かせることに米国の科学者が初めて成功した。

 移植を受けた細菌は、人工ゲノムによって自己増殖したという。「人工生命」の誕生に近づく成果だが、倫理面での議論も活発化しそうだ。J・クレイ グ・ベンター研究所(米メリーランド州)が20日付の米科学誌サイエンスに発表する。

 研究ではまず、牛の感染症を起こす細菌「マイコプラズマ・ミコイデス」のゲノムをコンピューターでデータ化。この情報に基づき、改めて「ミコイデス」のゲノムの断片を化学合成した。この断片を大腸菌と酵母に入れて遺伝子組み換えでつなぎ合わせ、ゲノムをまるごと再現した。

 完成した人工ゲノムを、よく似た細菌に移植したところ、移植された細菌が人工ゲノムの作用で「変身」し、「ミコイデス」のたんぱく質を作るように なった。細胞の「ハードウエア」にあたる細胞質は、移植先の細胞を流用しているが、「ソフトウエア」のゲノムが人工ゲノムに入れ替わったことになる。同研究所は移植を受けた細菌を「合成細胞」と呼んでいる。

 この技術を応用すれば、望みのゲノムを設計して微生物に組み込み、現存しない「新種」を生み出せる可能性がある。石油大手エクソン・モービルはバ イオ燃料を大量に生産する藻を作るため、この研究に資金を提供。製薬大手ノバルティスもワクチン開発のスピードアップに利用しようと研究を始めた。

 ただ、今回の技術で強力な病原菌が開発され、テロに悪用される危険や、自然界にない生命体が実験室から逃げ出す可能性も考えられ、論議を呼びそうだ。

(2010年5月21日03時07分  読売新聞)
 最後の「ただ、今回の技術で強力な病原菌が開発され、テロに悪用される危険や、自然界にない生命体が実験室から逃げ出す可能性も考えられ、論議を呼びそうだ。」というコメントはいただけない。強力な病原菌が欲しければこんな面倒な技術を使うまでもなく、普通の遺伝子組換えで十分なのだから。また、特に実験室から逃げ出しやすい性質(どんなのだ?)を備えていない限り、拡散防止措置やバイオハザード対策をとった実験室からバクテリアが簡単に逃げ出すことはない。それよりも意図的な持ち出しの方がはるかに起きやすい。

 ともあれ、この論文に到るこれまでの歩みを振り返ると、
  1. バクテリア・ゲノムの全合成(化学合成→大腸菌でのクローニング→酵母での環状化)
  2. 酵母細胞内での細菌ゲノムの操作とホスト細胞の防御システムを停止させる
 これらを組み合わせて今回の論文の仕事になっている。10kbp程度の部分配列の組み立て、100kbp程度の部分配列の組み立て、酵母での細菌の全ゲノムの再構築、宿主細胞の防御機能の無効化と全ゲノムDNAによる形質転換(!)、テトラサイクリンとX-galによる選抜(大腸菌と変わらないね)、ゲノムの入れ替えの確認、という手順について途中の失敗(!)も含めてあっさり書いてある。

 なんと言っても、ゲノムの全合成はお金がかかるけれども、ここ数年でまだ安くなっている。これに対して、確認のためのシーケンスは比較にならないペースで値下がりしているので、全体的なコストは3年前よりもかなりましになっている(でも、この論文1本に数億はかかっているだろう)。

 いずれにしても、転写装置と翻訳装置を完全に人工的に作れないうちは、完全に人工的な細胞を作ることはできない。Wheat germも昆虫細胞抽出物も使わないのであれば、人工的にリボゾームを作るほかない。そこまでやるのだろうか?彼らのゴールを見てみたい。

 ところで、ゲノムをそっくり入れ替えてしまった生物の種名をどう呼べば良いのだろう?カルタヘナ法で言う宿主と供与核酸の関係はどうなるのか?などなど、良くわからないことが多々発生する点から見ても、この研究が既存の概念を揺るがすインパクトを持っていることがわかる。

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2010年5月20日 (木)

携帯電話の使用で脳腫瘍は増えるのか?

CNNより

携帯電話と脳腫瘍、「因果関係みられず」の研究結果に批判も

(CNN) 携帯電話の使用と脳腫瘍の発症率の関係を調べた大規模な国際調査「インターフォン」で、両者に因果関係はみられないとの結果がこのほど発表された。これに対し、一部の専門家からは研究方法などの問題点を指摘する声も上がっている。

調査は世界保健機関(WHO)の国際がん研究機関が主導し、2000年から04年にかけ、米国以外の13カ国で実施した。脳腫瘍の手術を受けた患者に、携帯電話を使用していた期間や頻度、どちらの耳に電話機を当てていたかなどを尋ね、回答を分析した。結果は疫学専門誌IJEの最新号に掲載された。

それによると、携帯電話を1日30分以上、10年間にわたり使い続けていたヘビーユーザーのグループで、脳腫瘍の一種である「神経膠腫(こうしゅ)」を発症する危険性が40%高くなっていたことが分かった。さらに統計上の偏りを調整すると80%増という数字も出た。しかし研究チームによると、このグループに分類される人数は比較的少なく、因果関係を示す十分な証拠とは見なされなかった。

一方、少なくとも週1回、数カ月以上使用し、月平均の使用時間が120~150分間となる「日常的ユーザー」では、使用時間が増えるほど、脳腫瘍の発症率 がかえって下がる傾向がみられた。チームはこれについて、「調査上の限界」による誤差の可能性を指摘している。

インターフォンの結果について、米マウントシナイ医科大のデブラ・デービス博士は「携帯電話を使うなとも危険だとも言えないが、安全だとは言い切れない」 と話す。携帯電話は調査当時から現在までにさらに普及が進み、「米国には1週間に120~150分使うユーザーもいる」と、同博士は指摘する。

また、この分野で研究実績がある元エンジニアのロイド・モーガン氏は、同じように脳腫瘍との関連が疑われるコードレス電話の使用状況や、電磁波の影響を受けやすいとされる若者、子どものユーザーが、研究対象に含まれていないと批判する。また、回答者が使用頻度を申告する際、ヘビーユーザーは少なめに、あまり使わない人は多めに記憶している傾向があると主張。ただこれに対して研究チームは、記憶はほぼ正確だと反論している。インターフォンではさらに、携帯電話からの電磁波を受けた位置と腫瘍の発生個所との関係や、他の腫瘍の発症率などの研究も進行中。これらの結果はまだ発表されていない。

 あまり細かく分析すると使用する周波数の帯域とか、信号の変換方式がどうのという些末な議論に陥りがち。ともあれ、社会のインフラとしてここまで携帯電話が普及しているのだから、人口1万人あたりで見た脳腫瘍発症リスクが携帯電話の普及に伴って増えているのかどうか、というおおざっぱな議論があって、そこで一定水準以下のリスクしか検出されないのであればこの議論は終わりにして良いように思う。

 Wikipediaによれば、脳腫瘍の発症の頻度は「毎年約100,000人に12人の割合であるとされている」なので、1億2千万人あたりで見ると、14,400人程度。あまり予後は良くない模様。で、もし携帯電話以外に脳腫瘍の発生頻度に影響を与えるようなリスクファクターの変動が無いという前提で、この発生頻度数が携帯電話の普及前からあまり変わっていないのであれば、大騒ぎして携帯電話の使用ガイドラインを設けたとしても脳腫瘍の発症率を下げる効果はほとんど期待できない(トランス脂肪酸の表示義務と似たような議論だ)。

# 議論が続いた方が飯の種に困らない研究者も居るのだろうけれど、携帯電話の電波は自動車や電車の事故と比較して生命に与えるリスクは大きいとは言えないだろう。

2010年5月18日 (火)

火事場ではまず何をするべきか

 まだ延焼が進んでいる火事場で一生懸命火元探しをするのは無意味だ。まずはこれ以上の延焼を防ぐことと、早く鎮火させるにはどうするべきか、考えつつもまずは行動するべきだろう。
 鎮火したあとの生活再建もたしかに重要だけれど、緊急性から言えば、これ以上の延焼を防ぐことの方が重要だ。そうしないと焼け出される被害者の増加が止まらない。

 鎮火もしていないうちに、火元で消防団の火災の発見が遅かったのが問題だったと騒ぐような野次馬は、全く何の訳にもたたない。ましてや、火災現場に押しかけて騒ぐなど論外だ。

# 目下発生中の口蹄疫とは無関係です。

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2010年5月17日 (月)

腸内で抗肥満遺伝子組換えビフィズス菌を飼育しようかという研究

 医療目的でペプチドを経口投与しようとすると、GMPグレードの合成ペプチドは単価がめちゃくちゃ高いとか、有効成分を腸で作用させようとすると、胃で分解させないようにDDSを工夫する必要があるとか、色々面倒な問題が生じます。

 そこで、遺伝子組換えビフィズス菌の登場です。腸内に定住する細菌にペプチドを合成させるので、ペプチドの単価がどうのと言うケチくさい問題は発生しません。また、腸内で細菌がペプチドを合成するので、投与経路の途中で分解するんじゃないかという心配もありません。

R T Long et al., “Bifidobacterium as an oral delivery carrier of oxyntomodulin for obesity therapy: inhibitory effects on food intake and body weight in overweight mice,” Int J Obes 34, no. 4 (April 2010): 712-719.    

 新しい論文なので、Abstractまでしか無料で公開されていないのですが、アラビノースで誘導のかかる発現ベクターにヒトOxyntomodulin遺伝子をつないで形質転換した組換えビフィズス菌をマウスに経口投与しています。Oxyntomodulinというのは食後に消化管から分泌されて小腸で作用し、食欲を抑制するホルモン。37アミノ酸残基とペプチドホルモンとしては小さな分子(消化管ホルモンとしては普通)で注射でも食欲が抑制されるそうです。

 で、実験の結果、肥満気味のマウスの食欲を抑えて、体重と中性脂肪も抑制できたとのこと。組換えビフィズス菌自体が新しいタイプの抗肥満薬という訳ですね。

 面白いのは、アラビノース誘導型のベクターを使って、食事とは別にアラビノースを与えてOxyntomodulinの発現を誘導しているところ。この種の組換え微生物が腸内で勝手にはびこってペプチドを合成しまくると投与量のコントロールが全然効きません。その点、誘導型ベクターだと薬が効きすぎて食欲が全然無いようなら、発現誘導を止めてやればよいのである程度は投与量のコントロールができます(製品としてそれで良いのかどうかは疑問ですが)。

 まあ、もともと消化管で分泌されるホルモンなので、消化酵素で分解される心配は要らないのでしょうから、ビフィズス菌でなくても良さそうなものですけど。

 それから、この種の天然物と同等の薬効成分(特にヒトのタンパク質そのもの)は、物質特許では保護されないので、おそらく製薬会社としてはうまみがないでしょう。組換えビフィズス菌のヨーグルトを食べてダイエットという夢のある(・・・そうなのか?)製品につながる研究なのですが、現実味はちょっと薄いところ。

# スギ花粉抗原でも同じ手法が使えるかもね。

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2010年5月13日 (木)

総務省が「生体電磁環境研究」の提案の公募

総務省のプレスリリースはこちら。
http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02kiban16_000029.html

 公募のタイトルは「生体電磁環境研究」ですが、個々の課題名をみると、ほとんどが電波系、一部磁場ですね。大変残念なことに、私共が長年研究対象としてきた、地球外から到来する電磁波をエネルギー源として活動する生物(*)に関する研究領域は設定されておりません。

-注釈-
* 「地球外から到来する電磁波をエネルギー源として活動する生物」: クジラや渡り鳥など一部の脊椎動物は地球の磁場を感知することができるといわれている。しかし、それらの高等動物は地磁気を感知することはできても、それによって活動のためのエネルギーを得ることはできない。
 一方、それらの高等動物とは分類群が大きく異なるある種の生物は、地球外から到来する電磁波のうち特定の帯域のものを受容することで、水を分解し化学エネルギーに転換して、これを利用して大気中から吸収した二酸化炭素中の炭素を還元して糖を生成する。この糖を呼吸基質とすることで、これらの生物は体外から電磁波以外のエネルギーを取り込むことなく生育・繁殖することができる。

 要するに、植物の行う光合成とはそういうものだ。ちなみにここで言う”地球外から到来する電磁波のうち特定の帯域のもの”とは、緑色植物の場合は、可視光のうち680-700 nmの帯域にあたる。

# 私は今ひとつ電波系マッドサイエンティストの素質に欠けるなぁ。

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2010年5月12日 (水)

「生物多様性損失」の新聞記事に思う。

 今年は生物多様性条約の第10回締約国会議(COP10)が名古屋で開かれることもあり、国際生物多様性年でもあり、新聞各紙で生物多様性がニュースになっている。読売新聞より。

生物の多様性損失は人類の危機…国連報告書

 【ナイロビ=安田幸一】10月に名古屋で開催される生物多様性条約締約国会議に向けた専門家会合が10日、ケニア・ナイロビの国連環境計画(UNEP)本部で開幕し、条約事務局は生物多様性の現状を評価した報告書「地球規模生物多様性概況第3版」を正式に発表した。

 多くの絶滅危惧(きぐ)種で絶滅のリスクがさらに増え、生物多様性の損失が続いていると指摘、「効果的な対策を打たなければ人類の未来は危うい」と警告している。

 報告書は生息地の破壊などで、地球上の両生類の3分の1、鳥類の7分の1が、絶滅または絶滅の危機にあると指摘、地球全体の絶滅危惧種の状況は悪化したと評価した。

 元々いなかった生物種が在来の生物を脅かす外来種の問題も深刻化し、大量生産に向いた特定種の普及で、家畜や農作物の遺伝的多様性も失われたとしている。

 保護地域の指定範囲や、生物多様性を守るための政府開発援助(ODA)などは好転したと評価したが、8年前に定められた「2010年までに生物多様性の損失速度を著しく減少させる」との世界目標は達成できなかったと判断した。

 報告書は国際的な合意に基づいて、重要な生態系や種を保護する明確な目標が必要と指摘。

 アフメッド・ジョグラフ条約事務局長は「目標が達成できなかったのは、各国政府が生物多様性を最優先課題と認識していなかったことが原因。名古屋会議では実効性のある新しい目標づくりが重要になる」と日本のリーダーシップに期待を表明した。

(2010年5月10日23時27分  読売新聞)

 折角なので国連生物多様性条約事務局のホームページと、話題の報告書(Global Biodiversity Outlook 3= GBO3)にもリンクを張っておきましょう。報告書とりまとめにあたって日本の資金援助があったことも述べられています。しかし、このGBO3のPDFファイル、たいへん美しい報告書に仕上がっているのですが、引用文献リストが付いていません。どうやって科学的な信頼性を担保するのか、IPCCの報告書のように出所の怪しい情報もあるのでは?・・・と一瞬思ったのですが、リファレンス付きのバージョン(MS-word形式)も用意されていました。玄人さんにはこちらをお勧めします。

 さて、新聞記事ではおもに地球上の”どこで”種の喪失が起きているのかという視点が無く、「大量生産に向いた特定種の普及で、家畜や農作物の遺伝的多様性も失われたとしている。」というところがずいぶん強調されているように思います。オリジナルの報告書ではさほど大きな扱いでは無いのですが。

 かつて育種を生業としてきた者から見ると、野生生物の種の多様性と作物の遺伝的多様性を同じ次元でで論じるのはかなり奇妙な議論に思えます。なぜなら、作物というものはそもそもが、10,000年以上の歳月をかけてヒトが手塩にかけて野生植物の遺伝的多様性を切り捨てながら自分たちに都合の良いように栽培環境に合わせた遺伝子のセットを作り上げてきた成果なので、これからも人為的な改良が続けられる限り、ある程度の遺伝的多様性の喪失は一種の宿命だと考えられるからです。それに対して、あるがままにあるのをよしとされる野生生物とは、歴史的にも経済的にもヒトとの関わり方が相当に違います。とはいえ、そのような混沌とした議論が今日のglobal standardなのでしょう。

 GBO3では、この作物の遺伝的多様性の喪失を次のように表現しています。

Crop and livestock genetic diversity continues to decline in agricultural systems.

 その根拠として、作物については根拠として引用している文献は次の通り。

Xu, H., Tang. X., Liu, J., Ding, H., Wu, J., Zhand, M. Yang, Q., Cai, L., Zhao, H., & Liu, Y. (2009). China’s Progress Toward the Significant Reduction of the Rate of Biodiversity Loss. Bioscience, 59(10), 843-852. http://www.bioone.org/doi/abs/10.1525/bio.2009.59.10.6?journalCode=bisi.

Secretariat of the Convention on Biological Diversity (2009) The Convention on Biological Diversity Plant Conservation Report: A Review of Progress in Implementing the Global Strategy of Plant Conservation (GSPC). http://www.cbd.int/doc/publications/plant-conservation-report-en.pdf

  •   
  •  最初の方は中国の事例に関する報告で、後の方は生物多様性条約事務局とりまとめの報告書。この後者のとりまとめにあってはFAOは直接関与していない風だし、CGIARやそのセンターであるIPGRIは名前も出てこない、という様相を見ると、なんだかな・・・農業(開発) vs 環境(保全)という対立構造が国連内部にもあるのだろうか。

     色々批判もあろうけれども、私個人は多収品種の普及を”悪”と決めつける気にはどうしてもなれない。大抵の農民は少しでも多くの収入を得て自力で貧困から自由になりたいと考えているだろうから。だから、作物の原産地(や多様性センター)に近い地域の人々に対して、"人類が将来にわたって遺伝資源の持続的な利用を可能にするために、あなた方は多収品種を利用してはならない"と宣告することが作物の遺伝的多様性を確保するためにそれほど良いやり方だとは思えないのだ。作物の近縁野生種であれば、in situ conservation という方法もあろうけれど、地域の農村社会ぐるみの在来品種の保全には何か別の社会的モデルが必要になるだろう。たとえば、EU型デカップリングに近い一部所得保障する方法とか(それはそれで、もの凄い財政支出の上で新たなねたみの種を播くことになりかねないのだけれど)。

     開発と保全の両立に万能の処方箋はないものだな。

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    2010年5月11日 (火)

    自宅で楽しむサイエンス・カフェ

     筑波大のサイエンス・カフェのストリーミングをやってました。今日のお題は「系統樹曼荼羅(けいとうじゅまんだら)~自然観と思考法としての分類と系統」、講師はご存じ農環研の三中さん。

    第1部: 生物の「種」とは何か?未だとけない謎。「種」とは何かという問題は、形而上学の問題であって、生物学(というか自然科学)の問題ではない・・・という話。

    第2部: 「系統」とは何か?人はついつい分類してしまう生き物。分類は人の本能。これに対して系統はもっと体系的。系統樹は一種の言語。学習によって”読み書き”が身につく。リテラシーが身につく。

     ここで、私が晩飯で中断。

     遠くの会場の講演(そう遠くもないか)を自宅で視聴できるというのは便利ですね。・・・なんだか初めて電話を使った昔の人のごときコメントですな。

     私の思うところ、「種」と言う概念は社会構成主義的な構築に負うところが大きくて、概念によって無理矢理というか、暴力的に実在を切り取るためのツールではないかと思う。ま、生物学的な実在を言い出すこと自体、素朴な科学的実在論なのですがね。

     個々の個体のボトムアップで”生物種”を規定するか、歴史を貫く”生物全体”を規定してからトップダウンで”生物種”を規定するか、その切り取り方の違いが分類法の違い。あんまり突き詰めてゆくと、最近問題にされている生物多様性の喪失と言う議論の基礎をなす”種”と言う概念が揺らいでくるのでこのへんで止めておこう。

    # 環境科学方面では”種”の概念は固定的なもののようだし。聞くところによるとその方面では、表現型分散は遺伝子型による分散と環境の効果による分散の和であるという遺伝育種方面の常識も通用しないらしいし。

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    2010年5月10日 (月)

    twitterをなんで"つぶやき"っていうんだろう。

     最近、blogのアクセスログにtwitter経由で飛んでくる人が増えてきたので、私も連休中にTwitterなるものに手を出してみた(Jean_Domonと名乗ってます)。
     感想はと言うと、ほぼリアルタイムで140文字のショートメッセージを発信するところは、不特定多数向けのメールという感じ。メディアの性格から言えば、書き言葉と話し言葉の中間的な感じのものですね。
     しかし、”ほぼ”リアルタイムなので、チャットや電話ほど高速ではないし、140文字ではblogのように構造化できない。当然、あまり複雑な概念は伝えられない。そう言う意味では、小鳥のさえずり(tweet)に擬したtwitterというのは言い得て妙。re-tweetという機能は小鳥が仲間のさえずりをそっくり真似るところを想起させるし。そう言う意味では、「つぶやき」というなんだか暗いイメージの言葉はしっくりこない。
     当然、書き言葉の欠点からは逃れられる訳もなく、ことばのトーンが伝わらないので皮肉なのか本気なのかはわかりにくい。 
     まぁ、私の場合、職務専念義務があるから勤務時間中には使えないので、リアルタイム性は生かせないので仕事には使えないかな。そうなると、tweetするのは専ら夜・・・ナイチンゲールかフクロウか(私は風貌的には後者だったりするが)。
     使い始めて数時間で知人あるいはネット上の知人が幾人かユーザーにいたり、有名どころの雑誌がtweetしてたり、農環研や農林水産研究情報センターがtweetしてたりと、けっこう新鮮な発見があった。
     それと、bit.ly・・・なんて発音するんですかね?URL短縮は結構便利だと言うことを発見。
     まだ、タイムラインの機能とか、リストの使い方とか、作法というかtwitterなりの不文律も恐らくあるのだろうけれども、そう言ったローカル・ルールが分からないので使いこなすにはもうしばらく時間がかかりそうだ。

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    2010年5月 9日 (日)

    科学は知の異種格闘技か?

     物理学者ファイマン曰く

    「科学にとっての哲学は、鳥にとっての鳥類学者と同じだ」 (p. 220)

    高橋昌一郎著、講談社現代新書、知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性より孫引き。ある意味、科学者にとってのサイエンスコミュニケーターもまた、鳥にとっての鳥類学者と同じようなものかもしれないなぁ。

     また、この本では哲学者ファイヤアーベント(Paul Feyerabend)を紹介しています。私、不勉強にしてファイヤアーベントを知りませんでした。私は、ファイマンさんの位置づけではどちらかと言えば鳥類学者よりは鳥のほうなので、同時代の哲学者トーマス・クーンのパラダイムという用語や、通常科学への異常科学の挑戦という科学史観は知っていたけれど、「何でもあり」という立場は初めて知りました。

    「科学は本質的にアナーキスト的な行為だ」

     こんなにアナーキーなことを言う哲学者が居たとはショッキングです。言うなれば、科学とは正統対異端の二項対立ではなく、「何でもあり」の知の異種格闘義戦又はバトル・ロワイアル。正しいものが勝つのではなく、勝ったものが正しいのだ・・・違うか。

     もう一つファイヤアーベントの言葉を引用しておこう。

    「自分の話し方の基準にこだわって、その基準に合わないものは何でも拒否してしまう。いったん話題が馴染みのないものになり、自分の型にはまった判断からはみ出すとたちまち見慣れない服を着た主人に出会った犬みたいに、途方にくれてしまう。」

     ファイヤアーベントは、柔道着を着て居ないヤツとは試合ができないとか、土俵の上でなければ取り組みができないとは言わないのですね。「特権意識的失語症」の対極にある姿勢なのだろうか。なんだか親しみが持てます。今度、ファイヤアーベントの著書を読んでみよう。

     私の見るところ、この国の科学は今、伝統的なあり方を変えようとしている。明治以来、これまでは税を原資とする研究のステイクホルダーは、科学者とスポンサーの代理人たる官僚だけであったが、今後、科学者もこれまでよりもより一層、市民への説明責任を負わなくてはならなくなってきた。先般の事業仕分けも然り。今年の総合科学技術会議 基本政策専門調査会(第7回)の科学技術基本政策策定の基本方針(素案)(PDF)の”Ⅴ.これからの新たな政策の展開”にも次のようにある。

    3.科学・技術コミュニケーションの抜本的強化 ~国民とともに創り進める政策~
    (1)政策の企画立案・推進への国民参画の促進
    ○ 科学・技術・イノベーション政策で解決すべき課題や社会ニーズ、科学・技術の成果が社会に還元される際の課題等について、広く国民が参画して議論できる場の形成など新たな仕組みを整備する
    ○ 国民の政策への積極的参画を促す観点から、例えばNPO法人等による地域社会での科学・技術コミュニケーション活動や、社会的課題に関する調査・分析に係る取組を支援する。
    ○ 国民が自ら科学・技術の活用や要望について判断できるような情報提供やリテラシー向上の取組を行う

     このように、研究プロジェクトの企画立案段階から国民が参加するのであれば、当然、国民に対して科学者が説明や対話をする機会が増えていくだろう。もしそうなれば、もう”非科学者”である一般国民の使う用語や概念の正確性がどうのとは言っていられない状況での議論が、有無をいわさず広げられていくことになるだろう。

     普通に考えれば予算獲得に関わるそのような議論を、これまた一種”非専門家”であるサイエンスコミュニケーターだけが担うことはできないであろうから、ある程度のポジションにある科学者は否応なく、知の異種格闘義戦に引きずり込まれて行くことだろう。しかし、恐れることはない。もし、ファイヤアーベントの言うように

    「科学は本質的にアナーキスト的な行為だ」

    というのであれば、本領を遺憾なく発揮すればよいのだから。

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    2010年5月 7日 (金)

    ネアンデルタール人からの浸透交雑は”遺伝子汚染”とは言わないのだね

    現生人類への浸透交雑(introgression)の実例か?という論文。

    Richard E. Green et al., “A Draft Sequence of the Neandertal Genome,” Science 328, no. 5979 (May 7, 2010): 710-722.   

    新聞記事を引用すると、
    (毎日新聞より)

    ネアンデルタール人:ヒトと混血の可能性 ゲノムを解析

     ヒトと、ヒトに最も近い種で絶滅したネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)を独米などの研究チームが比較した結果、過去に一部が混血し、ヒトにもネアンデルタール人に由来する遺伝子が残っている可能性があることが分かった。チームが7日発行の米科学誌サイエンスに発表した。【斎藤広子】

     独マックスプランク進化人類学研究所などの研究チームは、クロアチアで出土した約3万8000年前のネアンデルタール人3体の骨の化石の細胞核からDNAを取り出し、ゲノムを解析。アフリカ南部▽同西部▽パプアニューギニア▽中国▽フランスのヒト5人のゲノムと比較した。その結果、アフリカ人を除く 3人の方がネアンデルタール人のゲノムと一致する率がわずかに高かった。チームは、アフリカで誕生したヒトの一部が8万年前以降にアフリカを離れた後、ユーラシア大陸に広がる前に中東近辺でネアンデルタール人と混血した可能性があると指摘。「ヒトの遺伝子の1~4%はネアンデルタール人に由来している可能性がある」と推測している。

     これまでヒトの細胞内のミトコンドリアDNAの分析などから、ヒトの祖先はアフリカで15万~20万年前に誕生して以降、絶滅した他種と混血しな いまま、ユーラシア大陸を経て全世界に広まったという「アフリカ単一起源説」が主流だった。一方、ネアンデルタール人については、ヒトと共存する時期があったことや、両者の交流を示唆する石器が発見されていることから、混血の可能性も指摘されていた。

    なお他社の見出しでは、

    ネアンデルタール人、現生人類と交配  ナショナルジオグラフィックス
    ネアンデルタール人、現代人にも遺伝子…10万~5万年前に交雑か  読売新聞
    ネアンデルタール人の遺伝子、我々にも? ゲノムで解明  朝日新聞

    となっている。ともあれ「現生人類と交配」という断言は言い過ぎ。ある前提条件に立って行った推定が事実によく一致するとしても、それはあくまでも推定でしかない。

     ともあれ、以前、現生人類とネアンデルタール人の間で、母性遺伝するミトコンドリア・ゲノムを比較した論文があったが(著者は今回の論文と一緒)、その研究で明らかにされた範囲では、ネアンデルタール人と同じミトコンドリアゲノムの型は、現生人類からは見つかっていない。・・・少なくともネアンデルタール人の女性を母とした現生人類の祖先が居た痕跡は見られなかったということだった。

     そして今回の論文では、現代のアジア人、ヨーロッパ人の核遺伝子の1-4%はネアンデルタール人に由来している可能性があると推定している。

     これら両方の論文の整合性を考えると、もしかしたらネアンデルタール人の父と、現生人類の祖先の母のカップルが居たかもしれない・・・もし幸福な結婚であったなら、だけれども・・・という推定ができそうだ。そして、そういった結婚のイベントはただ一回ではなかっただろうと。

     ところで、誰しも自分自身のことを悪く言いたくはないからだろうか。新聞各社とも、かつて生じていた(かもしれない)近縁種からの浸透交雑(introgression)を”遺伝子汚染”とは言わないのだな。これは一種のダブルスタンダードではないだろうか。

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    2010年5月 6日 (木)

    一人の凡庸な科学者として私はそう思うのだ。

     小島寛之さんのblogより。

    科学者とかそれっぽい立場を自称する人の多くは「説教」が大好きで、自分の専門をかさにきて、市民を叱りまくる。ちょっとした間違いや誤用でも容赦しない。でも、これは何か間違った「特権意識的失語症」であるように思えて仕方ない。ことばやものごとの理解は多様だし、いろんな段階がある。みんな科学に憧れを抱いているから、自分なりの理解を何か言ってみたい。それを細かいことで間違いを指摘され叱られ続けたら、そんな人の話に耳を傾けたくなくなるし、心の中ではそんな奴いなくなればいい、と思うだろうし、税金でそいつらを食わしていくことに腹がたってくるだろう。

     なるほど。「特権意識的失語症」というのが何を意味するのかは分からないけれども、多分、こと”科学”を語るにあたっては、寛容の精神が大切という主張なのだろうなぁ。でも、一人の凡庸な科学者として、私は科学者ではない市民が須く

    それを細かいことで間違いを指摘され叱られ続けたら、そんな人の話に耳を傾けたくなくなるし、心の中ではそんな奴いなくなればいい、と思うだろうし、税金でそいつらを食わしていくことに腹がたってくるだろう。

    と言う反応をするほどに狭量だとは思わない。誰でも間違いを指摘されればその分、前よりも少し賢くなれるだろう。たいていの人は、”話せば分かる”。ましてや、ある科学者が会話した普通の市民から「そんな奴いなくなればいい」とまで頻繁に思われるようでは、それはもう”凡庸な科学者”という水準ではなく、一種”非凡な科学者”ではないかと思う(できればそのように非凡な科学者ではありたくないものだ)。

     私は科学の用語やそれによって表される概念は正確であるに超したことはないと思う。一方で私はしばしば学術論文の中でさえ術語が多義的に使われるところに出くわすことがある。専門家の間では、そのような多義性さえもアウンの呼吸で乗り越えられるのだろうけれども、非専門家を相手にそれを要求するべきではないだろう。

     しかし、術語の多義性を放置したままで議論が進むと、結局のところ結論の一致を見たのか見なかったのか、話がだんだん曖昧になる。これは、科学に限ったことではない (例えば、”5月末 決着 定義”で検索すると明らかなように、”決着”と言う言葉で表される内容があらかじめ定義されていなかったために、形式論理的に結論を出せない議論になってしまっている実例もある)。だから、対話を進める上で差し支えのない範囲であれば、概念のずれやちょっとした勘違いまで、いちいち正す必要はないと思う。けれども、どうしても正確でなくてはいけない術語についてはきちんと定義しておかなくてはならないとも思う。

     ところで、小島先生の言うように、間違いや誤用の指摘=「説教」という図式が成り立つことがあるとすれば、その原因は科学者の語る話の内容ではなく、むしろ、その語法や文体(デリダの言うエクリチュ-ルとかでしょうかね)のあり方にある様に思う。「説教」もまた、対話に似たコミュニケーションの一つのありようではあるけれども、少なくとも対称な双方向のコミュニケーションではないし、ましてや対話ではない。

     おそらくこの先の主張は誰かが既に言ったことの同義反復になると思うのだけれども、私は、何かを理解すると言うことは、自分が見聞きしたことを自分なりの表現方法で再構成できるということだと考えている。だから、自分が語ったことが消化された上で対話する相手の口から再構築されて出てくるのを聞けば、自分の話が伝わったのだと楽しくなる。そのやりとりの結果ではなく、過程こそが大切なのだと思う。

     私は、相手の言ったことが少々学術的には不正確でもすぐに否定することはしないように心がけている。傾聴して一端受け止め、少し表現を変えつつ、そして少しでも正確になるように言い直す。それを何度も繰り返していると、同義反復からの若干のずれで何とか軌道修正できる・・・こともある。できるだけ辛抱強く、丁寧に。それが、一人の凡庸な科学者としての私にできるささやかな対話の有り様だと思うのだ。

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    2010年5月 5日 (水)

    ○○は実在しない -構造構成的毒劇物考-

     表題は、岩田健太郎さんの「感染症は実在しない -構造構成的感染症学」(ISBN-13: 978-4762826962)へのオマージュです。この本はとても刺激的な表題ですが、言わんとするところを理解にするには、”実在”と”構造構成的”とがキーワードになっています。私は”構造構成主義”や”実在”を正確に伝える資質を持っておりませんので、この件についてはコメントはしません。

     ところで、同じような前提に立って世間を眺めてみると、あるものの見方に立つと、観察する者とは独立な存在でないモノ・コトが、他のモノ・コトから恣意的な基準で区別されている状況があふれています。たとえば、

    • 理系/文系は実在しない (学生生活を海外で終えた場合や、高卒までの学歴の場合はどうなの?と言いたい。これも日本にしかない分類。)
    • 研究者は実在しない (研究をしていれば研究者か?じゃぁ、研究していないときは何者?何年研究していないと研究者ではなくなる?)
    • 医師は実在しない (海外で医師の資格があってもそれだけでは日本国内で”医師”になれない。医師法に従って登録されれば"医師"なのだが、日本限定。)
    • カルタヘナ法で言う生物は実在しない (細胞を持つ、いわゆる生物+ウイルス+ウイロイド="生物"。ただし、個体の一部は生物でない。カルタヘナ議定書締約国以外には適用されない分類。)
    • 麦は実在しない (オオムギ、ハダカムギ、コムギをまとめて三麦と呼ぶのは科学的にはナンセンス。オオムギ(その部分集合であるハダカムギ)とコムギは種が違う。しかも、燕麦やライ麦まで一緒にまとめる分類法はある意味すごい)
    • 生物の"種"は実在しない (生物多様性を考える際の概念的なツールとしては、固定的な種よりも境界の緩やかなジーンプールの方がより便利だと思う)
    • 品種は実在しない (在来品種や種苗法の登録品種は、他の"品種"との表現型の識別性に基づいて区別される。合成品種のように遺伝的にわざわざ幅を持たせた"品種"まである。生物学的な本質論から言えば、遺伝子型の違いこそが重要。)
    • 毒物・劇物は実在しない (物質の毒性にかかわらず毒劇法のポジリストに乗るなり毒劇物になる。日本限定。※ 毒劇法で指定された物質に毒性があることは当然として、指定されていない毒性物質もまた沢山あるという意味では恣意的。)
    • 肥満は実在しない (有無を言わさずBMI 25以上は肥満という恣意的尺度。しかも日本限定。まぁ、太ってるかどうかはわかるけどね。)

    ・・・etc. いずれも、"実在"はしないモノ・コトですが、現実の社会において何某かの"操作"を行うことを意図すると、あるモノ・コトを他のモノ・コトと区別できると便利なので(あるいは、便利だと広く考えられているので?)、このような恣意的な区別が容認されているのでしょう。これは、科学哲学で言う操作可能性(manipulability)を担保することの方が、モノ・コトが"実在"するかどうかよりも重要だと考えるきわめてプラグマティズム的な態度といえるのかもしれません。

     もし自分がガン患者になった場合を考えれば、「ガンは実在しない」という医師よりは、まずは重粒子線をあてるなり切るなり抗ガン剤を投与するなり、治療のベストプラクティスを模索する医師の方を選ぶでしょうからね。

     ところで、だとすると恣意的な基準であるところの理系/文系の区別は何の役にたつのだろう?

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