○○は実在しない -構造構成的毒劇物考-
表題は、岩田健太郎さんの「感染症は実在しない -構造構成的感染症学」(ISBN-13: 978-4762826962)へのオマージュです。この本はとても刺激的な表題ですが、言わんとするところを理解にするには、”実在”と”構造構成的”とがキーワードになっています。私は”構造構成主義”や”実在”を正確に伝える資質を持っておりませんので、この件についてはコメントはしません。
ところで、同じような前提に立って世間を眺めてみると、あるものの見方に立つと、観察する者とは独立な存在でないモノ・コトが、他のモノ・コトから恣意的な基準で区別されている状況があふれています。たとえば、
- 理系/文系は実在しない (学生生活を海外で終えた場合や、高卒までの学歴の場合はどうなの?と言いたい。これも日本にしかない分類。)
- 研究者は実在しない (研究をしていれば研究者か?じゃぁ、研究していないときは何者?何年研究していないと研究者ではなくなる?)
- 医師は実在しない (海外で医師の資格があってもそれだけでは日本国内で”医師”になれない。医師法に従って登録されれば"医師"なのだが、日本限定。)
- カルタヘナ法で言う生物は実在しない (細胞を持つ、いわゆる生物+ウイルス+ウイロイド="生物"。ただし、個体の一部は生物でない。カルタヘナ議定書締約国以外には適用されない分類。)
- 麦は実在しない (オオムギ、ハダカムギ、コムギをまとめて三麦と呼ぶのは科学的にはナンセンス。オオムギ(その部分集合であるハダカムギ)とコムギは種が違う。しかも、燕麦やライ麦まで一緒にまとめる分類法はある意味すごい)
- 生物の"種"は実在しない (生物多様性を考える際の概念的なツールとしては、固定的な種よりも境界の緩やかなジーンプールの方がより便利だと思う)
- 品種は実在しない (在来品種や種苗法の登録品種は、他の"品種"との表現型の識別性に基づいて区別される。合成品種のように遺伝的にわざわざ幅を持たせた"品種"まである。生物学的な本質論から言えば、遺伝子型の違いこそが重要。)
- 毒物・劇物は実在しない (物質の毒性にかかわらず毒劇法のポジリストに乗るなり毒劇物になる。日本限定。※ 毒劇法で指定された物質に毒性があることは当然として、指定されていない毒性物質もまた沢山あるという意味では恣意的。)
- 肥満は実在しない (有無を言わさずBMI 25以上は肥満という恣意的尺度。しかも日本限定。まぁ、太ってるかどうかはわかるけどね。)
・・・etc. いずれも、"実在"はしないモノ・コトですが、現実の社会において何某かの"操作"を行うことを意図すると、あるモノ・コトを他のモノ・コトと区別できると便利なので(あるいは、便利だと広く考えられているので?)、このような恣意的な区別が容認されているのでしょう。これは、科学哲学で言う操作可能性(manipulability)を担保することの方が、モノ・コトが"実在"するかどうかよりも重要だと考えるきわめてプラグマティズム的な態度といえるのかもしれません。
もし自分がガン患者になった場合を考えれば、「ガンは実在しない」という医師よりは、まずは重粒子線をあてるなり切るなり抗ガン剤を投与するなり、治療のベストプラクティスを模索する医師の方を選ぶでしょうからね。
ところで、だとすると恣意的な基準であるところの理系/文系の区別は何の役にたつのだろう?
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