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2007年12月30日 - 2008年1月5日の記事

2008年1月 4日 (金)

”eBayでDNA合成装置が買える? 「オープンソース遺伝子工学」の時代”という妙な記事

まずは07年12月19日付けWired Visionの記事を読んでいただきたい。

表題通り”eBayでDNA合成装置が買える”と言う記事で、

「この種の装置は、ブタノール[燃料などに使えるアルコール]を生産する大腸菌の菌株の構築など、有用なことに使えるが、 当然のことながら、それだけでなくもっと悪質な目的にも利用できる。そのため合成生物学の研究者たちは、 DNA合成装置が悪意をもって使用されることを懸念している。」

という危惧をあらわしている。

さて、日本でDNA合成装置を安く買いたければ、中古の分析機器屋さんへ行けばよい。個人だからと言って買えない理由はない。 特にDNA合成装置を規制する法律もないことだし。

しかし、今時、分子生物学方面の仕事を専業にしている研究者は、自分でDNA合成装置を使ってDNAの合成をしたりはしない。 合成DNAを買いたければDNA合成を受託している会社は国内外にいくらもあるので、 そこにメールで塩基配列を送ると、中2日くらいで合成DNAが送られてくる。価格は、合成する量とDNA鎖の長さにもよるが、 1塩基あたり20円程度だ(もっと安い会社もあるだろう)。支払いはクレジットカードでできる会社もあったと思う。この10年ほどは、 そう言う状況にある。

実は、DNA合成装置を買ってしまうと、その維持管理に手間と時間がかかるだけでなく、 DNA合成を委託した場合には当然のサービスである品質チェックや定量も自分でやらなくてはならない。 合成DNAの数が多いとこれは大変な労力になる。また、使い切らないうちにダメになってしまう試薬の始末や、 合成後のアンモニア分解など面倒を山ほど背負い込む事になる。だから、よくよくの理由がなければ、 普通はDNA合成装置を買おうとは思わないのだ。

つまり、 合成DNAを入手したければ10年も前から相応の金額を支払えば誰でも入手できる世の中だということは分子生物学系の研究者なら誰でも知っている。 だから、今更DNA合成装置がインターネットのオークションに出たからといって「DNA合成装置が悪意をもって使用されることを」 だけを懸念する研究者が居るとは思えないのだ。これは、一種のたちの悪い冗談で私がついて行けていないだけなのだろうか?

なお、この記事を書いたAlexis Madrigal氏は、訂正記事で蛍光光度計(luminometer) とDNA合成装置の区別がつかなかった事を告白している。しかも酷いことに、Wired Vision日本語版の翻訳では、 luminometerを”照度計”と翻訳している。orz

一方、Wired Visionのこの記事では、Reason誌の記事を引用している。こちらの方は、 DNAウイルスとRNAウイルスの区別がついていないようなところはあるが、もうすこしましだ。

そう。こちらの記事の通り、DNAデータベース上の病原微生物のゲノム情報と通販の合成DNA、高価な試薬、 実験設備そして核酸操作や動物細胞培養の技術があれば、病原性ウイルスの再構築は不可能では無くなってきている。 それには相応のコストはかかるが、技術的な障壁は無くなりつつあると言う点では、バイオテロの潜在的なリスクが無いとは言えない状況だ。

しかし、”DNA合成装置がバイオテロの引き金になるかも”という短絡的な発想はいただけない。問題は、 DNA合成装置が入手しやすい事にあるのではなく、合成DNAと病原性微生物の再構築ができる技術が広く普及している事にあるのだから。 そして、強力な爆薬や核爆弾を作るのとは違って、病原性微生物の再構築は、法律の規制対象ではない普通に市販されている試薬や細胞を使って、 普通の大学や研究所の実験室でできる(一部のケースをのぞいて法律の規制は受ける)・・・もっとも、 自分が感染しないようにきちんと管理できる専門家か、よっぽどの命知らずに限られてはいるが。

# なお、いかなる国の法律も、テロリストが法を守る事を前提として書かれてはいない。

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2008年1月 3日 (木)

のようなもの、とは何か

昨年末、コシヒカリのようなものというエントリーを書いてからふと思った。

”○○のようなもの”と言うときの、”のようなもの”の指し示す内容には、少なくとも二つの意味合いがある。

その1。

清水義範や、立川志の輔の言う”バールのようなもの”のように使われる”のようなもの”は、 指し示す対象がはっきりとはわからないが、バールであることも排除しない、と言う場合に使われる。

例:凶器は包丁のようなものだな。

その2。

たとえば、疑似科学を指して、”科学のようなもの”と言う場合の”のようなもの”は、指し示す対象が”科学ではない” と言うことを言外に伝えたい、と言う場合に使われる。

例:結婚は鳥かごのようなものだ。外にいる鳥たちは中に入ろうとし、中の鳥たちは出ようともがく。(モンテーニュ)

つまり、”のようなもの”と言う言葉はきわめて文脈依存的で、書き手と読み手の間に、前提となる了解事項が共有されていないと、 表現する内容が伝わらないやっかいな言葉だ。

”コシヒカリのようなもの”は、生産資材としてはあきらかにコシヒカリではないが、 商品としてはコシヒカリであることも排除しないのだな。

私?まぁ、研究者のようなものです(爆)

 

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2008年1月 2日 (水)

未来を読みたければ、空気を読むな

以下、放言。

# 知り合いが読んでるかと思うと気恥ずかしいものがあるが、でも書かずにいられない。

放言その1:「KY」なひと。

昨年の流行語大賞の一つが「KY」。「空気が読めない」の略らしい。

「空気を読む」というのは、結局の所、人の顔色(表情)を窺うということだろう。 人の顔色ばかり窺っている他人指向の人間に独立心や主体性を求めても仕方がない。日本人は古くから、 人の顔色ばかり窺っている者を卑しんできたのではなかったか。

しかし、人の表情を読みとる能力が極度に低いと、コミュニケーション不全をおこす。それが病的な水準に達すると、 アスペルガー症候群という病名までつく。

どこまで、その場にいる人々の感情に斟酌するか、要はバランスの問題なのだが、 昨今は自分が無視されたとか軽んじられたと感じると我慢ならない人が増えたせいか、他人に「空気を読む」 ことを強要する風潮が強まっているように思う。それが「空気が読めない」事を、人の欠点として指摘する事態の背景にあるのではないかと。

私は、あまりに空気を読む事に長けている人を見ると、魚群を形作る魚を思い起こす。イワシやアジのように、塊を作って泳ぐ魚は、 互いに衝突しないように実に巧みに均衡を保ちながら、”塊”として行動する。塊の中にいる魚には周りの魚しか見えず、 魚群全体がどこへ向かって泳いでいるのか、さっぱりわからないまま周囲との相対的な位置関係を保ちながら、 中庸な多数派であることに安住している。

魚群が泳いで向かって行く、その先を知りたければ、塊の先頭に出るしかない。そのためには、魚群の中にいる魚は、 前にいる魚を押し分けて前に出なければならない。ひょっとすると衝突もあるかもしれないが、 見通しの良い場所に出て自分達の向かう先にあるものを知りたければ、衝突を恐れずに前に進むしかない。

未来を知りたければ、空気なんか読んでる場合ではないのだ。

私もそうなのだが、研究者というのは多数派に安住していては商売にならない。どのように人と違う事をしているのかが言えなければ、 自分の研究の意義を説明できないし、論文も書けない。一方、その研究が向かう先にどのような未来があるのか、 誰よりも早く予測できる立場にある。職業上、魚群の先頭を泳がなければならない宿命にあると言えるかもしれない。

そのせいか、職場にはコミュニケーションの下手な人が多い(もう、 多いという水準ではない気もするが・・・)。世間で言う「KY」な人々があふれている。多分、 流行語大賞なぞ知らない”KYってなに?”という研究者が多いことだろう。それは会議に出てみるとよくわかる。多くの場合、 結論という一方向に向かう魚群の体をなしていないのだ。

しかし、魚群の先頭を泳がなければならない宿命にある研究者は、「KY」であることに胸を張って良い。それは、 先頭を泳ぐ者の特権でもあるのだから。

 

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放言その2:「農業環境生物資源・種苗研究所」

昨年末、独法の整理合理化については時機を逸して書き損なった。年末の官房長官と農水大臣との折衝で、農業生物資源研究所(生物研) +農業環境技術研究所(農環研)+種苗管理センターの統合が決まった。

農水大臣曰く、「先端的な研究と現場の連携を深めることで、相乗効果が期待できる」・・・だそうだ。

閣議決定後に農水省から説明に来ていたが「政治的に急遽決まったことなので、今後どのような組織になるか今の時点では説明できない」 という旨の説明をして帰って行った。ふざけてそう言うのであれば、怒りようもある。しかし、大まじめにそう言われてしまった日には、 もう返す言葉もない。

大臣の発言から察すに、「生物資源研究所」も「農業環境技術研究所」も先端研究という意味では一緒、というご認識と見受けられる。 これは、かなりショッキングだった。「すばる望遠鏡」も「H-IIAロケット」も宇宙に関係していると言う意味では一緒、 という発言を聞いたくらいに・・・。先端研究といっても、生物研の研究は「ゲノムから種の多様性+遺伝子組換え技術」という、 どちらかというとミクロな領域の仕事だし、農環研の研究はまさに「環境」という、宇宙という括り以下では、 ほぼ最大級のマクロな領域の仕事だ。これをホチキスするのか混ぜるのかは知らないが、 どのようにシナジー効果を出してマネージメントしていくのか?そこを考えるのが理事長や理事の仕事だが、こういう時は、 そういう問題を考えずに済む下っ端で良かったと心底思う。

さいわい、大臣におかれては「種苗管理センター」の業務が「現場」に密に関連したものであることは認識されていたご様子。しかし、 イネ・ゲノム研究の成果が品種識別に活かせるかというと、品種識別の対象になっている植物は種のレベル以上の多様性があるので、 そう簡単にはいかない。だいたい、品種という言葉で表される幅広い概念には、生物学的な実態が伴っていない。困ったことに、 その実態がほとんど理解されていない。

イネ・ゲノム研究の成果を品種識別に生かそうという考え方は、 ヒトもナメクジウオも同じ動物だからナメクジウオの地域分化の研究にヒトゲノム研究の成果を使いましょう、 というくらにナンセンスだ。

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2007年12月31日 (月)

コシヒカリのようなもの

今年最後のエントリーは、自分のフィールドに回帰して締めくくることにする。

近年の日本のイネ育種では、”ほとんどコシヒカリ”なイネを育成することが一つのトレンドになっている。たとえば、ミルキークイーンコシヒカリBLコシヒカリつくばSD1号ヒカリ新世紀コシヒカリ関東HD1号、 コシヒカリ関東HD2号など、コシヒカリの突然変異体や準同質遺伝子系統(NIL)がそれだ。

コシヒカリがコメ市場においては良食味の最高峰であり、 なおかつ育成場所においては良食味イネ品種のスタンダードになっていることを考えると、食味についてはもはやいじる必要はなく、 育種目標が耐病性や耐倒伏性など栽培特性を改良することに向かうのは自然な流れでもある。

となると、次は、これらの遺伝子のコンビネーションで、いもち病抵抗性で半矮性のコシヒカリBLSD1シリーズや、 さらに出穂期のバリエーションを持ったコシヒカリBLSD1HDシリーズ、そこに極低アミロースのwx-mqを加えた、 コシヒカリBLSD1HDシリーズwx-mqあるいはミルキーBLSD1HDシリーズなどが開発されるのだろうか。

なんだかイネの品種名だか家電製品の型番だかよくわからない名前になっていくような・・・。いっそ”コムギのさぬきの夢2000” のように、イヤーモデルにしてはどうかと思う。

12/26のFood Scienceに松永和紀さんが”「ヒカリ新世紀」に見る育種の未来”という”イネ育種”を題材にした記事を書いている (リンク先は有料です)。

育種家の苦労を思いやる記事で、一般の方の理解促進につながればありがたい限りだ。ただ、若干誤解があるかもしれないので、 メモしておく。

コシヒカリBLからヒカリ新世紀を連想して、 「交配により新しい遺伝子が導入されているが、そのほかの塩基配列はコシヒカリとあまり変わらない」と、 どちらもコシヒカリのNILと一括りにしている。育成方法と、どちらの品種もほぼコシヒカリという点でも確かに似ているが、 半矮性遺伝子を導入した場合と病害抵抗性遺伝子を導入した場合では、元品種からの性能の変化は全然違う。

導入した遺伝子が病害抵抗性遺伝子の場合は、病原体の感染が起こらない環境下での表現型は、元品種とほぼ変わらない。 病害が発生しない場合は、収量も、いくらがんばっても元品種を超えることはない。しかし、半矮性遺伝子を導入した場合は常時、草型が変わり、 その結果受光能力も変わる。また倒伏もしにくいので収量は増える。つまり、病害抵抗性遺伝子のNIL場合は、 病害が発生しやすい環境条件でも平常時の「元品種より悪くならない」ことを目標としているのに対し、半矮性遺伝子のNILの場合は、 平常時でも「元の品種よりも沢山とれる」ことを目標としている。

つまり、育種戦略の「積極性」が全然違うのだ。例えば、 アグレッシブに得点をねらう品種であるヒカリ新世紀やコシヒカリつくばSD1号に対して、コシヒカリBLは「鉄壁の守り」 で失点を許さないディフェンシブな品種といったところだろうか。だからこそ、 コシヒカリBLは製品として流通する際にもコシヒカリを名乗っているのかもしれない。

また、

「唯一はっきりしていることは、「ヒカリ新世紀」と命名するような明るさと希望が、品種改良という地味で困難な仕事には必要、 という思いだ。いや、品種改良ではなく育種と呼ぼう。日本では、育種という言葉があまり認知されていない。それほど、 新しい品種をさまざまな手法で作り上げる育種の仕事が、社会において軽んじられているのが実態だ。」

育種には明るさと希望が必要・・・私も一頃オオムギの育成に携わった身としては、その点は全くその通りだと思う。 育種は農業の生産基盤を支える技術として、社会的にもっと認知されて良い。

しかし、品種名を付ける時、育成者が何を思っているか、松永さんはご存じないのかもしれない。 私や一緒に仕事をしてきた先輩育種家(ブリーダー)達にとって、命名された品種名は、実は大して意味を持たないように思う。私たちにとって、 育成系統が品種になるということは、仕事の終わりを意味する。

作物によって違いはあるが、オオムギの育種に限って言えば、実際の品種育成のプロセスにおいて、 育成系統が生産力検定試験で期待された目標通りの収量を上げることが明らかになり、 品質や耐病性等でも欠点がないことが明らかになった時点で、育成系統は完成する。ブリーダーにとっての育成の仕事はある意味、地方番号(国、 独法の育種では、品種候補になった時点で”地方番号”という番号を付ける)を付けた時点で終わる。そこから先は、数年間にわたって、 都道府県に新系統を配布して品種としての採用を考えていただくための”営業”になる。そして、育成系統が最終的に”品種”になるかどうかは、 生産現場が新品種を欲しがっている(ニーズ)という”時の運”にかかっている。

めでたく品種に採用されることが決まった時は、”公募”で名前が付くのを待ち、 品種の普及を願って関係者でささやかなお祝いをすることもある。だが、公募で付けられた品種の名前自体には、育成者は大した思い入れはない。 ”ふーん、そんな名前になったのー”という感想を持つくらいだ。ややもすると、ある育成系統が品種になることが決まった時には、 地方番号の付いた系統はブリーダーにとっては既に”過去のもの”になっており、頭の中は次の品種のことを考えている。例えば、こんなふうに。

”3年前に出した品種はたしか「超良食味」で出したんだっけ。じゃ、次は「超超良食味」か「極良食味」 で行こうか”

前の品種が優秀であるほどに超えなくてはいけない品種の水準は年々着実に上がっていき、 新品種が超えるべきハードルはだんだん高くなっている。

そして、自分で育成した前の品種の些細な欠点を取り上げては、次の系統ではそこの所が改善されています、 と言って新しい系統を売り込む。丁度、パソコンのソフトの新バージョンを売り込むのと似ている。残念なことに、組織で行う育種には、 子供の名前を考える時のような、豊かな感情の入り込む余地はあまりない。

ブリーダーは”品種”とは”生産資材”だと考えている。だからこそ、品種名に無頓着なのかもしれない。

しかし、実態として、品種の命名が市場で取引される製品のネーミングに関わる問題だとすると、 もっと真剣に取り組むべきなのかもしれないが、ネーミングする側の意識は、そう簡単にそれについていかないだろう。

# だからこそ、私は品種名をブランドにすることに反対しているのだが。

 

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2007年12月30日 (日)

C型肝炎の患者は推定100-300万人居る

厚労省の事務次官ともあろう方が何という発言を・・・    

 

薬害肝炎「発生責任」、厚労次官が否定的見解 (読売新聞)

     
   

 薬害C型肝炎訴訟で、議員立法による全員一律救済法案に盛り込むよう原告側が求めている国の「発生責任」について、     厚生労働省の江利川毅・事務次官は27日、定例の記者会見で「医薬品はそもそも効果と副作用を併せ持つものだが、『発生責任』     を認めれば、副作用のある薬は承認できなくなる。実態をふまえた責任論が展開されることを期待する」と述べ、否定的な見解を示した。    

   

 薬害肝炎に関する「国の責任」の表現を巡っては、政府・与党内で、「解決を遅らせた責任」といった「結果責任」     のみ認める案が当初、浮上していた。これに対し、原告側が「薬害を発生させた責任」を認めることを求めている。

 
 
    [ 2007年12月27日21時11分 ]  
  医薬品の「副作用」(adverse reaction)というのは、   WHOの定義によれば「医薬品の有害作用とは医薬品が通常の治療や予防に用いられる用量で引き起こす、有害で、望まれない反応」、   独立行政法人医薬品医療機器総合機構法第四条第六項では、    “「医薬品の副作用」とは、   許可医薬品が適正な使用目的に従い適正に使用された場合においてもその許可医薬品により人に発現する有害な反応をいう”と定義している。  
 
  だが、生物製剤による感染症は”副作用”なのか?それは、違うんじゃないの?というのが   「事務次官ともあろう方が何という発言を・・・」の、意味するところです。医薬品の成分本質の多面的作用である”副作用”と、   製造工程で管理しきれなかった感染性微生物等による感染では、未然防止の可能性がそもそも全然違います。  
 
  さて、”発生責任”とは”薬害の発生を未然に防止する責任”と解釈すると、   次官発言も理解できる。治験や市販化後の追跡調査の範囲で予測できない被害については、科学的な予測が成り立たないためだ。しかし、   そのための補償制度は既にあるので、次官発言はこの文脈ではないだろう。
  一方、”結果として発生したことに対する責任”   についての発言と解釈すると、国は薬害に対する結果責任は今後とも負わないと言っているに等しい。これは、おかしい。  
  科学は万能ではない。   医薬品の製造販売許可はその時々の科学的な水準に照らして最良の知見を持って、リスク・ベネフィットを比較して、   その医薬品の効果が副作用を上回るようであれば合理的な根拠に従って許可してきたし、今後もそうあるべきだ。  
  しかし、ある医薬品に対して国の製造販売許可が降りた後で、   予測に反してあらたに有害事象(副作用・感染症)が発生した場合は、行政上の過失がないにもかかわらず、”薬害”が発生することになる。    治験に参加する被験者は数年間で数千人程度。一方、市販化後の医薬品は10年以上(場合によっては数十年)、数万人に対して、   様々な状況下で処方されることになる。有害事象の発生するケース(統計学で言う期待値)は市販化後の方が遙かに高くなる。  
  この場合、手続きに瑕疵がないのであれば、許可を出した国には未然防止する”発生責任”   は無いが、薬害という結果に対して、何ら過失のない被害者を”救済”(補償ではない)するべきだろう。
 
  そのためには、
     
  •    
          「副作用・感染症報告」制度の見直し:現行制度は2003年以降、       医療機関から厚労省に直接報告する事を義務づけているが、きちんと機能しているか?    
     
  •  
  •    
          無過失の薬害に対する救済制度:医薬品医療機器総合機構で医薬品副作用被害救済業務       (生物由来製品感染等被害救済制度など)として実施しているが、今回のC型肝炎が対象にならなかった(?)       ので訴訟に発展したのはなぜ?    
     
  •  
  •    
          投薬・治療履歴の長期保存、共有化:制度上、証拠を保全するべき。       電子カルテ化は進んでいるが、病院間で共有できる所までは来ていない。    
     

など、見直すべき点が多いように思う。

さて、上で引用した医薬品副作用被害救済業務のページでは、 医薬品副作用被害救済制度とは別に生物由来製品感染等被害救済制度(上で述べた、補償制度) の救済給付の対象にならないケースが示されている。

     
  1. 法定予防接種を受けたことによるものである場合(別の公的救済制度があります)。    任意に予防接種を受けた場合は対象となります。
  2.  
  3. 医薬品・生物由来製品の製造販売業者などの損害賠償責任が明らかな場合。
  4.  
  5. 救命のためにやむを得ず通常の使用量を超えて医薬品を使用し、健康被害の発生があらかじめ認識されていたなどの場合。  
  6.  
  7. 医薬品の副作用、生物由来製品を介する感染などにおいて、その健康被害が軽度な場合や請求期限が経過した場合。
  8.  
  9. 医薬品・生物由来製品を適正に使用していなかった場合。
  10.  
  11. 対象除外医薬品による健康被害の場合(医薬品副作用被害救済制度のみ)。

・・・ 生物由来製品感染等被害救済制度と、医薬品副作用被害救済制度が別になってるということは、制度設計を行った厚生労働省としても、 生物製剤による感染症は医薬品の副作用とは考えていないのでは?となると、事務次官発言は視点がずれている。

今回の薬害C型肝炎訴訟の場合は、上記のどれかに該当しているのだろうか?その点も報道を見てもわからない。しかし、 フィブリノゲンが適応症例(低フィブリノゲン血症)以外でも止血剤として広く使われてきた事を考えると、上記の5.に該当する可能性がある。 ・・・であるとすると今回訴訟になっている薬害を起こした結果責任は病院にもあるのではないか? 一方で止血剤を投与しなければ、その時点で患者は死んでいたかもしれないという事実はあるにせよ。

ところで、朝日新聞に投与履歴が証明できない50代の匿名のC型肝炎被害者の次のようなインタビューが載っていた。

 

「投与が証明できなければ救われないなんて悔しい。ただ死を待つしかないんでしょうか」

この患者さんは肝硬変まで進行しているとのこと。あまり報道されていないが、 ウイルス性肝炎のインターフェロン治療に対する治療費の一部助成は、来年度からスタートすることが既に決まっている。 これは対象は薬害の被害者に限定されていない。しかし、肝硬変の場合はインターフェロン治療の効果はあまり期待できない。

失礼を承知で書かせていただくと、投与が証明されたとしても状況は何も変わらない。代償期であればまだしも、 非代償期の肝硬変は今の医療では治せない。投与証明の有無で違うのは、金銭的な補償があるかないかであって、救われるか否かではない。 肝硬変の患者が救われるためには、培養自己肝細胞移植ができるようになる等、治療技術の革新が必要だ。 既に肝硬変になってしまった患者さんが待つものは、死ではなく、新しい治療法の開発だ。

薬害C型肝炎の患者は1万人以上と言われているが、C型肝炎の患者は100-300万人居ると言われている。 目先の政府の責任追及にコストを掛けるべきか、肝炎の段階で一刻も早くインターフェロン治療を受けられるようコストを掛けるべきか、 あるいは肝硬変・肝癌の治療法開発にコストを掛けるべきか。どれを優先するかは行政だけでなく、政治家も、 訴訟を継続してきた患者団体自身も考えなくてはならない。

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