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2007年11月29日 (木)

科学は、いや科学者はその問いに答えられるか?

 遺伝子組換え食品に関わるコミュニケーションをテーマに開催されたとある講習会の参加者から寄せられたコメント

「将来何かが起こるかも、という素朴な質問に対して、回答しようという姿勢を示さないこと自体が、無視されているように感じられ、不信感を招く。」

 さて、この種の質問に誰が答えられるだろうか?言い換えれば、責任を持って答えられるのは誰だろうか?

 私はこの種の質問をされると困る。ひたすらに困る。

 何故か? それは、一つには、私がこの種の質問に責任を持って(あるいは職責において)回答できる人間ではないからだ。 職業上、自然科学に携わっている研究者や技術者は誰でも、おそらくこの種の”素朴な質問”に責任を持って答えることはできないだろう。  

 おそらく、科学者や技術者が真剣にこの質問に答えようとすると、端的に言えば、次のような回答になる。

「質問の仕方が間違っています。」

 非常に拒絶的で、冷淡で、傲慢で、人を馬鹿にした答えだ、と、思われるかもしれない。しかし、科学的であろうとすると、あるいは”専門家”としての職責に忠実であろうとするほどに、そういう姿勢で答えざるを得ないのだ。

 あたり前のことを言うが、自然科学は万能ではない。だからこそ、自然科学、とりわけ実験を行う自然科学の分野では、実験の前提条件を厳密に設定する。なぜならば、実験は自然現象の一部を切り取り、限定した条件の下で再現する(いわば自然現象を”なぞる”)ことで、自然界で起きている現象が「どのように」起きるかを再現することで、自然現象を説明しようとする。それが、自然科学で行われる実験というものの本質であると私は考えている。

 たとえば、マウスなどの動物を使った毒性試験を行う場合は次のようになる。ある飼育環境で、ある系統のマウスに、ある毒性物質X(概ね類似の物質からどのような毒性があるか類推できる)を、ある決まった量の範囲で、ある期間に投与するとする。その場合、実験の打ち切り時点までに、ある割合で特定の臓器に腫瘍ができたとする。

 これから言えることは、「ある毒性物質Xは、ある決まった量の範囲でマウスのある系統に投与すると、ある割合で特定の臓器に腫瘍ができる」という実験結果がその条件の下で得られた、ということのみ。そこから先は、実験を行った専門家の責任においておこなう、「マウスではこれこれの毒性があった。従ってこの物質は、おそらく他の哺乳動物にも同程度の毒性があるかもしれない。」という”推定”(あるいは考察)になる。

 自然科学においては無制限に巨大な実験を行うことはできない。お金も時間も限られている。例えば、樹木の寿命は数千年に及ぶが、その生涯を観察しおおせる研究者は居ない。際限もなくマウスの世代を重ねる実験もできない。だから、ある現象を解明するために行える実験は(研究分野によってスケールに違いはあるものの)、自然現象のごく一部を切り取って、よくコントロールされた条件の下で再現して見せることしかできない。そして科学者はそこから、推論を行って一般的なルール(法則性)を抽出しようとする。実験を行う自然科学の分野では概ねこのように研究 (新たな知識の発見)が行われている。

 翻って、遺伝子組換え食品を食べると、「将来何かが起こるかも」という”素朴な疑問”においては、問いを立てるに当たって、どのような前提が置かれているだろうか?

 考えてみると、”どのような遺伝子組換え食品” (入れている遺伝子も作物も多様です)を”どのくらいの期間”(一生?それとも数世代?)、”どのくらいの量”(毎食?それもほとんどの食材?)を食べた場合に、”どのような有害事象が想定されるのか”という前提条件が、全く設定されていない。

 つまり、この問いは”自然科学が答えられる質問の様式に従っていない”ことになる。 専門家として招かれた講習会でこのような質問をぶつけられたら、あなたならどうする?

 限られた持ち時間で、その質問はなぜ科学が答えられる性質のものでないのかを説くだろうか?でもそれは、”自然科学”という知の様式を扱う科学哲学の専門領域の話ではないのか?それをあなた(私)が、あたかも科学哲学の専門家であるかのように解説しても良いのだろうか?それとも、あなた(私)は科学者ではあるが科学哲学の専門家ではないので、その質問に答える資格がない、と言ったところで納得してもらえるだろうか?

 答えは、いずれもNoだ。普通の市民は自然科学の問題と科学哲学の問題の区別が付かない。自然科学に関する問題であっても、実験結果とその延長である推定との区別も付かないだろう(新聞社の科学記事の書きぶりから考えると概ねそのようなものだし、行政官でも区別のできなかった人を何人か知っている)。

 だから、私はこの種の質問をされると困る。ひたすらに困るしかないのだ。ただ、何故困っているのかを説明し、質問を無視しているわけでも、質問している”あなた”の人格を軽んじている訳でも、はぐらかしている訳でもないが、科学的には答えることが不能である事を一生懸命説明する事はできる。それでも理解していただけないこともあるが、私の限られた経験から言えば、とりあえず一生懸命説明しようとする誠意だけは伝わる事が多い。

 だが、それで納得していただいたとしても、それはもはや「安全性の議論」ではないし、科学者と市民の対立 (大抵の場合はすれ違いであって対立ではない事が多いが)の解消でもないことは押さえておかなくてはならない。私は、科学者や技術者には、スポンサーとしての市民にわかりやすく説明する義務はあると思う。しかし、時にこんな要求をされるのだが、自然科学上の問題を義務教育を終えた水準の人にもれなく理解できるように説明することは、非常に難しい。

 その努力を惜しむものではないが、改良していない昔の作物の品種やら、300年前から変わっていない製法の餅菓子を喜んで受け入れる人々にきちんと伝わるように説明をする自信は、いまのところ無い。それは知識や知性の差異の問題ではなく、おそらく信仰の違いの問題なのだ。

 異論・反論承る。

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