生物と無生物のあいだ - 福岡 伸一 著 -
分子生物学者のエッセイである。 所々にちりばめられた専門的な生物学の知識をきらびやかな文体と巧みな比喩で専門家でない読者にもわかりやすく説いている。・・・ のだろう。私はほぼ専門家なので、非専門家の視点には立てない。だから、私は、 非専門家向けにこの本の書評をするには不向きな人物であることを自覚している。
私は分子生物学者ではないが、それにかなり近い研究者なので、生命が動的平衡状態にあることや、 生物が動的平衡状態にある物質の秩序の上に成り立っている「何者か」であることは知っている。この本の書評を書いている人の多くにとって、 生命が動的平衡状態であることが目から鱗の新鮮な知見であることの方が、私にとっては目から鱗である。
読者の中には「生物」と「生命」の違いがわかっていない方もいるようだ。 また、本書での生物に関する記述が、遺伝物質(遺伝子ではない)から、代謝、細胞、 個体という順に微視的視野から巨視的視野へと順次ズームアウトしていく構成になっていることさえ追えないでいる読者もいるようだ。
腰巻きに寸評している内田 樹先生によれば 「理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツイスト」がきれいに決まると、背筋がぞくっとする。」のだそうだ。この感覚は、 私にはわからない。なぜならば、ロジカルでクールな文章とは、「論理がツイストしない(ねじれない)」文章だからだ。そのかわり、 論文を読んでいると時折、ロジカルで淡々と事実を紡いでいて至極クールで、しかも論理がちっともツイストしていないで、 その分剛速球のようにズドンと決まるというものに出会う。そんな時にこそ、私は背筋がぞくっとする。
かつて、川喜多愛郎先生が「生物と無生物の間」 という本を著した。その本の主題は、ウイルスという自己複製する要素ではあるが自己複製能力を持たない物質であった。ウイルスは核酸を持ち、 それを遺伝子として機能させる複製装置も翻訳装置も持っていない。翻って、「生物と無生物のあいだ」でも、やはり生物のような「もの」 としてウイルスが記述されている。しかし、この本全体を通じて流れている主題としての「生物と無生物のあいだ」とは、 無生物であるDNAが転写され、翻訳され、機能タンパクが入れ替わり立ち替わりしながら代謝を続ける平衡状態・・・ すなわち物質から生命にいたるプロセス全体を指しているようにも読める。
福岡先生の「生物と無生物のあいだ」は、そのきらびやかな文体と巧みな比喩で今後も多くの読者を魅了するだろう。しかし、 残念ながら私には「響かなかった」。なぜか?この本に書いていることは面白く、ほぼ正確だ。世間に知られないポスドクの何たるかも、 一般向けの本で語ることに意義はある。しかし、 著書に書かれた福岡先生の研究者としての過去と現在のありようとの不連続性に私は痛みを感じる。福岡先生は言う。 アカデミズムのヒエラルキーは死んだ鳥を生むと。しかし、そのヒエラルキーを完全に否定しては、なかなか研究業績も出ないし、 卒業生は院生として研究室に居着かない。ファンドが取れなければポスドクも雇えない。また、事務系のスタッフも雇えなければ、 ラボのマネージメントも教授一人がしなくてはいけない。*
生命は、非常に精密であると同時に、非常にアバウトにできている。細胞内の信号伝達は、 精妙なタンパク質のネットワークを通して行われている。福岡先生が言うように、ある遺伝子をノックアウトしても、 代替経路で信号が伝えられると、一見なにごとも起こらなかったように見える事もある。 よく似た遺伝子が破壊された遺伝子のバックアップにあたることもあれば、 酵素反応の果ての代謝産物ベースでなんとかつじつまを付けてしまうこともある。最初から遺伝子のスペアを複数用意している場合もあれば、 一つの遺伝子を様々な組織で使い回している場合もある。逆に、生物のライフサイクルの中で1,2回、 ここぞ、と言うタイミングでしか使われない遺伝子もある(私は勝手に 「冠婚葬祭用遺伝子」と呼んでいる)。
遺伝子組換え技術は、その動的平衡状態に対する挑戦である。・・・というと、神の摂理に挑んでいるかのごとく言う人もあろう。 私の言う挑戦とは、そんなことではない。エントロピーに逆らって「変わるまい」とするのが、生命の本質であるとするならば、 数個の遺伝子を操作して外から入れたくらいで、その生命という平衡状態を保っている生物を変えるのは、なかなか大変だということなのだ。
生物は時に不思議なことをする。短波長の光の届かない海中にいるクラゲがなぜか、 青色の光をあてると緑色の蛍光を発するタンパク質を作ったりする。ほとんど意味不明というか、生命現象であるので「合目的性」はない。
かと思うと、植物の貯蔵タンパク質には裸子植物から被子植物まで広く構造が保存されているものもある。11Sグロブリンがそうだ。 特に不都合が無い限り、パーツの使い回しをしているかの様に見える。まるで、新製品はとかく故障しがちという事を知っている様な保守性だ。
翻って、工業製品にもこのような保守性が見られる場合がある。例えば乾電池がそうだ。 単三という規格の乾電池しか受け付けない構造の機器が世の中にある限り、電池の中身が「マンガン乾電池」、「アルカリ乾電池」、 「水銀フリーアルカリ乾電池」、「ニッカド充電池」、「ニッケル水素充電池」、「リチウムイオン充電池」と変化していても、 外見はほとんど変わらない。
そう考えると、植物の11Sグロブリンも、個々のタンパク質分子の大きさと立体構造、三量体を形成する性質、酸性- 塩基性サブユニットに開裂する性質、特定の貯蔵液胞に蓄積する性質は保存されている。一方、アミノ酸の一次構造はあまり保存されていない。 こちらは、分子時計なりの進化速度で変わっているようだ。
では、「個々のタンパク質分子の大きさと立体構造、三量体を形成する性質、酸性-塩基性サブユニットに開裂する性質、 特定の貯蔵液胞に蓄積する性質」が保存されているのは何故か・・・これは、 その規格の電池しか受け付けない装置が細胞の中にある、ということでは無いだろうか? 一次構造からは推定し得ない保守性の謎を解く鍵はそんなところにあるのかもしれない。
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