2020年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック

どこからきたの?

  • なかのひと

Google Analytics

« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »

2005年2月の記事

2005年2月28日 (月)

「意見交換会」にて

2/23 つくば市の遺伝子組換え作物の規制に関する意見交換会につくば市民として参加した。

生協の職員の方から次のような発言があった。

「2点あります。一点目は国の研究機関がつくば市にあるということが議論をする上で大事です。 国の研究機関は国家政策として遺伝子組換え技術を推進している所です。決して、 国民とか市民のための科学をどうするかと言う視点については、正直言ってあんまあり、先ほど市の方もおっしゃられたように(笑いながら) 人口増加だとかですね、食糧確保だとか、環境保護のための、遺伝子組換えかどうかというところは、非常にあの、市民の中で、 あるいは国民の中でよく検討されなけれないといけない項目だと思っています。しかし、現実的には、 非常に資本がらみで企業と絡んだ利害がそこの中に入ってきます。それを、第三者機関なり市民が入った機関として、 国家政策についてきちんと、点検をする必要があると思っています。それが、世界の、あるいは日本の、 研究機関が密集しているつくば市ではその姿勢が大事だと思っています。 流通で混乱が生じないようにするためのガイドラインを作りたいのだということを、きちんと添えて、一番日本の中で研究機関が、 しかも国家政策として、進められているところできちんと、市民も参加して、国家的な科学政策について、それなりに検討できる機関を、 このつくばの方でも作っていく必要があると思っています。これがとても大事ですし、研究者も含めて色んな市民も多いという、 そういう市として、国の政策に対して市民なり国民が主体的に暴走しないように検討していく、そして慎重に対処していけるような、 それを国民のための科学なり技術なり、というところでチェックをかけてゆくことができるような組織作りをしていただきたい。 そのような趣旨で、ガイドラインを含めて、つくば市としての主体的な考え方を明確にしていくチェック機関としての、 それをぜひ含めていただきたいのが一点目です。

二点目は、国の機関が変わってきていて、独立行政法人と生格付けが変わってきた面もあって、 民間の利益目的のところとかなり一体化した研究が進められてきたと思うんです。であるが故に一層、 そこについての注意を市民レベルでもしていける場として、ガイドラインの中にその辺の注意を設けられるようにしていく。で、 具体的な監視の問題として、先般ダウケミカルの問題があって、実際には種子を取り違えたということで、 日本では許可されていないトウモロコシをやってしまったと、そうしてそれより、市とか県にどういう通報があって、どういう相談があって、 あるいはそれについて事前に、本当に国民にとってあるいは市民に有益な研究なのかどうなのかを、 ほとんど説明会では説明されないままただ説明すればよろしいと言う流れで進んでいと思うんです。で、 したがって第一種使用規定の規定する農水のガイドラインが、非常に問題が多いと思っている。ただ、 説明して意見を聞けばあとはやっちゃうんですよ。殆ど変更無しですよね研究機関は。そうではなくきちんと制御できる、 その研究とその価値も含めての、誰のための研究なのかも制御できるような、 きちんとした市民が入った組織をつくば市のほうで作っていただきたい。大枠この二点でガイドラインを含めて作るのであれば、 しかもさきほどのように単なる流通だけでなく研究機関がありますよと市がおしゃって居るわけですよね、 そこが今回ガイドラインを作る目的ですということならば、先ほどの答弁のように曖昧にしないで、 きちんと研究機関に対してどういう市民的な制約なりチェック機構を作る公的な第三者機関を作るのかどうかと言う姿勢を示していただきたい。 二点をベースにして意見を申し上げました。」

内容を要約すると以下の二点になると思う。

  1. 国の研究機関で行われる研究が市民のためのものとなるように、市民を交えて検討する機関の設置をつくば市に要望する。
  2. 独立行政法人が行う遺伝子組換え作物の栽培を市民が監視し、制御できる機関とガイドラインの設置をつくば市に要望する。

・・・多分こう言いたいのかな。発言内容を読み返してみて、一点目と二点目の言いたいことの違いがよく分からなくなってきた。

さて、規制に関する論議の是非はさておき、この方の発言は大きな勘違いに基づいて行われているように思う。この方の発言に対して、 農水系の独立行政法人の元職員として言うならば、まず、独立行政法人になったからといって、 企業からの委託研究が増えているという実態は殆どなかった。私が知らないだけかもそれないが。また、委託研究費でももらわない限り、 企業の利益のために独立行政法人の職員が研究することはない。仮に、企業の紐付き研究費で研究しても、給料や待遇には反映されないので、 あまり旨味はない。特に企業秘密に関わる部分は論文にかけないなど制約が多い場合は、委託研究であっても受けようとは思わない。

次に、農水系の独立行政法人の職員は、農業の発展と農家の利益、食品産業の振興を通じて広く国民の利益となるように働いている。 つまるところ、この国の殆どの市民が関わって暮らしているところの産業振興の為に働いている。この国で、”産業” と縁の薄い市民は公務員と団体職員(生協のような)位のものだ。産業の振興のために働くと、それがなぜ”市民” のためならないことがあるという論理展開になるのか、私には全く理解できない。

第三に、独立行政法人の行う研究は、主務官庁の厳正な制御の元に行われている。国の予算を使って行う研究は、 課題設定に際しても科学的必要性、行政的必要性、緊急性などの観点から既に監督されている。また、 国の予算を使う研究全般は内閣府 総合科学技術会議の監督下にある。これを、市民が監視・制御することに、どのような妥当性があるのか? その任に当たる市民は、議員のように市民の正当な信託を得た者であるのか?であるとして、 その者は科学的な見地から研究課題の審査あるいは監視にあたる能力があるのか?権限と能力があるとして、 どのくらいの時間で審査あるいは監視ができるのか?この方のものの見方は私には、重要な視点が欠けているように思える。

第四に、日本の人口は2010年には減少に転じる。その予測はほぼ妥当だろう。では、将来にわたって、 わが国に食糧危機が来ることはないと言えるだろうか?その点については、私は心配している。なぜならば、 わが国の食料の60%は輸入に頼っており、それは強い通貨に支えられているからだ。食料のある部分は無駄に消費されているという議論もある。 それはその通りだろう。しかし、人口の減少によってわが国の経済活動が衰退し、円の価値が下がり、 その一方で中国の人口増加によって食料の国際的な価格が高騰した場合、今と同じだけの食料を輸入し続けることはおろか、 国産農産物の価格も原油高によって高騰することになる。生産コストを下げる多収作物の開発は、単に発展途上国だけの問題ではない。 すくなくとも笑いながら口にするべき問題ではない。

さて、発言内容についての私の見解は以上である。次に、この方の発言の根底にあるものの見方について、私なりの想像を働かせて見る。

  1. "市民"と"国家や企業"は対立する概念である。
  2. 市民の判断は正しい。
  3. 企業や国家という力を持つものは市民の視点を欠いており、市民に害を与える。
  4. 企業は金儲けの為に悪いことをする。
  5. 独立行政法人の研究者は、市民に有害な研究をする。

概ねこのような図式に基づいて上記の発言があったのではないかと想像する。1.については、どのような企業の職員も、 公務員も市民である。そうでない市民は学生か団体職員か専業主婦くらいである。対立する概念だとすると、学生、団体職員、 専業主婦のほうが社会から孤立するかもしれない。

2.については、正しい場合もあるし、そうでない場合もある。ただ私に言えることは、「市民は判断の結果に責任を負わない」 ということだ。市民の判断は常に正しいという見方には全面的に反対する。多くの市民は目先の問題には反応するが、 長期的な展望や問題意識を持たない場合が多いように思う。

3.については、害を与えることもある、が、行動原理として害を与えることを目的としているわけではない。 企業や国家は行為の結果において責任を持たねばならないが、常にあるいは高い確率で害を与えるわけではない現状に鑑みて、 この考え方は偏っていると思う。

4.については、企業の経済活動に、"正当な収益"と"金儲け"の線引きはできないように思う。3.と同様、 常にあるいは高い確率で悪いことをするわけではない現状に鑑みて、この考え方は偏っていると思う。

5.については、害を与えることもあるかもしれない、が、行動原理として害を与えることを目的としているわけではない。 研究者は研究の結果において責任を持たねばならないが、常にあるいは高い確率で害を与えるわけではないし、 これまで害を与えたという事実もない現状に鑑みて、この考え方は著しく偏っていると思う。

続きを読む "「意見交換会」にて" »

2005年2月27日 (日)

「・・・になります」って一体何が何になるのだ?

昨日の夕食時のこと。とあるファミレスで次の表示を目にした。

natteru!

「お茶とお冷はセルフサービスになります。」って、一体何が「セルフサービス」に「なる」のだ? 「お茶とお冷」が「セルフサービス」になるというのか?これのプレートを採用した人は、どうして「お茶とお冷はセルフサービスです。」 という伝統的な表現を避けたのだろうか。

コンビに等で、「こちら、○○円になります。」という口語表現は、この3年ほど耳にしている。この「・・・になります」 という口語表現を耳にする頻度から推測して、ことの是非とは別に、いわば21世紀型の日本語として定着しつつある状況にある。

現状として、この表現は広汎に見られるのだが、その一方で、そこには何らかの「理由」があるのだろうか?構造主義的な考え方では、 ある言い回し普及(=構造の布置の変化)は、構造(言語)の制約は受けるものの、恣意的に起きるとされる。 すべての構造の布置の変化が恣意的であるとなると思考停止に陥ってしまうので、ここはとりあえず何か理由があると考えてみたい。

「・・・になります。」

まず、この言い回しによって表現される「こと」の意味は「・・・です。」と同一であると考えてみる。すると、今世紀に入って「こと」 の性質が世間で一斉に変化したためにこの表現が広まったとは考えにくい。したがって、この表現が普及した根底には「こと」 の意味の変化があったとは考えにくい。

そうすると次に考えられるのは、「・・・になります」と言う場合の表現の特徴に何か鍵がありそうだ。「なります」は「なる」 の丁寧な表現だ。では「なる」=「成る」とは?辞書にある伝統的な語法では、

  1. できあがる。仕上がる。
  2. 組み立てられている。成り立つ。→「ダ・ヴィンチの筆になる」
  3. {「・・・して」、「・・・で」をうけて}我慢できる。さしつかえない。→「不安でならない」
  4. 他のもの、状態に変わる。→「燃えて灰になる」
  5. ある状態・時期・数量に達する。→「大きくなる」「花見時になる」
  6. 結果としてある状態が生ずる。→「何かと為になる」

くらいである。おそらく、5.6.あたりの使い方になります。いかんいかん、5.6.あたりの使い方だ。

つまりは、「結果」を提示する「だ・です」と同様の使い方でありながら、 変化をあらわす意図があるように感じられる。上述のケースでは提示される対象は「お茶とお冷」だ。 これが「セルフサービスになります」というのであれば、「お茶とお冷」は本来は(あるいは世間一般の常識としては) セルフサービスではないのだが、当店ではそれに変わってセルフサービスですということになりはしないか?であるとすれば、 世間並みのサービスよりは、手抜きであることを自覚しているので、本来ならば、 「お茶とお冷はセルフサービスとさせていただきます。」という謙譲語を使って然るべき場面であるように思う。

おそらく、「・・・になります。」、という表現のかもし出す不快な雰囲気の正体は、本来謙譲語を使用するべき場面で、 「・・・になります」という意味不明の言い回しをすることで、当為の責任を何かに転嫁していることにあるのだ。つまり、 「・・・になります」という表現をすることの意図は、責任の所在を曖昧にするためであったのだ。

言語学的な言い方を借りるならば、「・・・になります」 というシニフィアンによってあらわされるシニフィエは聞き手に意味するところの明確な輪郭をもたらさない点で曖昧な印象を与える。これを、 「やわらかい表現」と勘違いしているのではないだろうか。

ことばが変化していくことは止められない。が、その意味内容を置き去りにして、 表現だけが伝えるべき内容を正確に定義しない方角へと漂流していくことは、私には耐えられない。そのうち公文書にまで、「○○の案件のほう、 ××となります。」という言い回しがはびこるようになる日が来るかと思うとぞっとする。

続きを読む "「・・・になります」って一体何が何になるのだ?" »

2005年2月25日 (金)

なかなか便利な構造主義

 あれは大学2年の夏(1988年)だったか、大学の図書館でN.チョムスキーの「言語論」を手にした。前日の晩に、 テレビで大江健三郎が言語について語っていた文脈で、言語学というキーワードとともに登場したのが頭の片隅からどうしても離れなくて、 その著書を読んでみようと思い立ったのだ。チョムスキーは9.11以来、一般にも平和主義者として知られているが、 言語学の分野では非常に著名な研究者である。

#チョムスキーを知らない言語学者は、メンデルを知らない遺伝学者と同じくらい胡散臭い?

 「言語論」は、分厚く門外漢の私には非常に取り付きにくい本であったが、何とか通読した。人間に共通の何らかの「構造」 がヒトが言語を理解する能力の根底にあるとする生成変形文法(最近は 生成文法というらしい)の概念は新鮮で、今日の機械翻訳の基礎となっているらしい。当時、言語学はいわゆる「理系」 の研究分野ではないかと思ったものだ。その著書で私を捉えて離さなかったものは、 構造主義という立場であった。構造主義自体の説明は私の能力を超えるので、どこかで 良書を見つけてほしい。

 木村の中立説は、中立な突然変異と遺伝子頻度の機会的浮動が進化の原動力であると説き、一方、 セントラルドグマはDNAの遺伝情報が表現型に変換される背景にある機構のモデルを提供した。それぞれの仕組み、 あるいはルールはその根底にある潜在的な構造が規定し、個々の現象はそのルールすなわち構造の具現されたものであると考える。 どちらも構造主義生物学と言えないだろうか?

 統一理論や法則が成り立たない生物学の世界-多元主義的というか多神教的というか・・・の、 ローカルな規則性の抽出に活路を見出す構造主義生物学は片隅の遺伝学研究者にも光を投げかける。

続きを読む "なかなか便利な構造主義" »

2005年2月23日 (水)

TX開業日決定!

8/24だそうだ。 あと180余日。指折り数えて待っております。
運賃は1,150円。通勤定期では40%引きだそうだ。って、日割りでは(1,150 x 2) x 0.6 = 1,380円/d , 41,400円/m?かな?秋葉原-東京は、6ヶ月定期では3,025円/m=(18,150円)なので合計44,425円/m。

現状では2,080円/day, 45,760円/22日なので、ちょっと安くなるかな。
それよりも、一日あたり2-3時間は自由になる時間が増えるのが、実にありがたい。

2005年2月18日 (金)

「科学的知見」と「蓋然性」の怪しい関係

朝、高速バスでT大のO先生とたまたま乗り合わせたので、話をしながら東京まで出てきた。

 交雑を介した遺伝子の拡散について話し合ったのだが、このところ「A種とB種は0.8%の確率で交雑する」”だから” 「自然界に外来遺伝子が拡散する可能性は限りなく小さい」という論議が多いことを嘆いておいででした。

 「交雑確率(あるいは可能性)」が小さくても、試行回数や集団のサイズが大きければ拡散する機会(蓋然性) はちっとも小さくは無いという例です。従って、前後の言明を繋ぐ”だから”という推論はこの場合正しくないのです。

 一般に生物学の論文に示される事実とは、限定された回数の試行の範囲で、 ある事象がおこったという言明にあらわされる内容に限られます。また、ある事象が起こらないこと、たとえば「A種とB種は交雑しなかった」 という事実のみでは、新事実の提示にはなりませんので、普通は論文にはなりません。ただし、多くの交雑組合せについて行った実験で、 ある組合せでは雑種ができたというポジティブなケースと並べて記載されることはありますが。

 しかも、「A種とB種は交雑しなかった」という事実が論文として示されたことをもってしても、「A種とB種は決して交雑しない」 という原理的な不可能性を保障するものではありません。

 生物学分野における科学的知見というものには、
1. 提示された事実には人為的なバイアスがかかっており、自然界でおこること(あるいは、 おこらないこと)を代表しているとは必ずしもいえない(論文で示された事実は、蓋然性が高い場合もあれば、低い場合もある)。
2. 基本的に、限定された回数の試行の範囲での議論しかできないため、確率を推定することはできるが、 それをもって自然界における無限機会の実現可能性(蓋然性)を推定することは、必ずしも(というか、大抵は)論理的に正しくない。
という特徴があります。

 今朝、O先生との対話を通じて、生物学分野における科学的知見の性質は、殆ど抽象化・ 一般化できないという特徴を持つ点で物理学や化学のように普遍性を追求する科学とはいささか趣が違っているのかな、と感じた。

 たしかに、生物学には「法則」といえるほどにものは殆どない(俗に”メンデルの法則”というが、正確ではない)。


ハーディー・ワインベルクの法則・・・ありえない前提に立っていますが、まぁ良しとしましょう。

ベルクマンの法則、アレンの法則・・・法則というには弱い。

セントラル・ドグマ・・・ドグマ(教義)であって法則ではない。ただただ信じよ!信じるものは救われる。 (レトロウイルスやレトロポゾンがどうのと、せせこましいことを言ってる場合じゃありません。)

という按配。理論あって法則無し、というのが生物学の世界。法則が無くって何も困ることは無いんですけどね。

 

 

続きを読む "「科学的知見」と「蓋然性」の怪しい関係" »

2005年2月17日 (木)

サービスキャンペーン!

なんだかとってもお得な響きである。「お客様のお車はサービスキャンペーンの対象ですぅっ!」という按配に使うことばらしい。

だが、実はちっともうれしくない。googleで調べてみるとよい。これは自動車業界の用語で、 「リコールまたは改善対策に該当しないもので、商品性改善のために、国土交通省へ通知して、自動車等を無料で修理します。」だ、そうである。 国土交通省のホームページでもリコールとは別に扱われているので、断じてリコールではない。

我が家の平成10年式のプリメーラカミノワゴン(P11)のCVTがいかれたようである。 エンジン回転数上がってもスピードが出ないと、カミさんがディーラーに症状を訴えると、サービスキャンペーンの対象なので無償修理、 レッカー、代車も保障しますとのこと。ふーん、リコールじゃないんだ・・・。変速しなくなる”だけ”なので、 走らなくなる訳じゃないからなのかな。一般消費者にはこの違いは分かりません。

ま、CVTユニットを交換すると40万くらいかかるそうなので、とってもお得!といえなくもないのだが。

そろそろ買い換えようかな。いっそ、プリウスにでもしようかな。

続きを読む "サービスキャンペーン!" »

2005年2月16日 (水)

観測可能・観測不能

科学哲学上の立場で、「科学は観測可能な物事については、観測主体と独立な世界について正しい理論や法則性を見出せるが、 観測不能な物事については、そうとは限らない」とする立場がある。「科学哲学の冒険」(戸田山和久著)によれば反実在論というらしい。

しかし、観測可能か観測不能かはどこで線引きができるのか?眼鏡をかけていない私と、 眼鏡をかけている私では観測できる領域も精度も大きく異なった訳だし、色覚に障害のある方とそうでない人では、計測器を使わない場合、 吸収スペクトルの判別精度に違いがある。個人差をどう考えろというのか。また、計測器を使う場合の観測可能と観測不能には、 合理的な線引きができるというのだろうか。

「植物の感情を測定する装置」のようなトンデモ装置の存在まで認めろとまでは言いませんが、 科学的な予想の限界が観察可能かどうかに関わっているとは考えたくもありません。

また、社会構成論という立場もあるらしい。要は、科学的事実といわれるものはすべて社会的な”お約束”に過ぎない。それが、 自然現象をよく説明するとしても、それは”たまたま”に過ぎない、という、恐るべき立場である。たとえ宇宙空間がエーテルに満ちていても、 物が燃える時にフロギストンが放出されていても、多くの人の日常には何のかかわりもない。また、 いかなる科学的説明も社会の一角でしか意味を持たないということには、うなずける一面もある。私は、 社会構成論を唱える人に反論しようとは思わない。その立場をとる方々の周辺で、その論が破綻しなければ、それで平和なのでしょうから。

社会構成論の立場をとったブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウルガーという人が居るらしい。 人類学的アプローチで同時代の科学者の研究現場でフィールドワークをしたという。つまり、科学者本人の主張とは別に「実際に何をしているか」 を記録し、考察するという立場である。たとえば、分子生物畑の研究者が「制限酵素処理をした」という操作を、 「長さ2cmほどのプラスチックの円錐形の管に、数種類の微量の液体を注ぎ込んで、つめで管をはじき、彼らが”遠心装置” と呼ぶ箱に数秒間入れては取り出し、36度に暖めたお湯に浮かべた。そのまま二時間放置していた。」という風に記述する。そして、 そのような行為の積み重ねは、それ自体理論には直結しないことを説く。日常の実験操作とは切り離された理論体系に照らして初めて、 それらの行為に意味が与えられるのだと。

結局、彼らの試みは上手くいかなかったのだが、私も時折、自分の日常の振る舞いから、”意味”を取り除いて見ることがある。 一日てんてこ舞いの状態で実験をして、その記録を整理してみると、一日の大半を実験台とクリーンベンチの前に座ってすごし、 分刻みで微量の液体をプラスチックの管に移し変え、暖めたり冷ましたりしている。はては電場の中においた寒天の板の穴に流し込んだり、 30分ほど待って、寒天板に紫外線を当てて写真を撮ったりしているだけである。それから何が分かるのか?そう、 体系立てられた知識を取り払って行為だけを眺めていると実にせせこましい労働である。

また、地域の農業試験場の役割から「研究成果の提供」を取り除いてみたこともある。すると、 研究を行ってきた当事者にとっては意外なことに、地域の農業試験場は研究成果を世に提供しなくてもそこそこ役には立っていることがわかる。 たとえば、研究室あたり平均1.5-2人程度の臨時職員を雇用している。試薬・ 消耗品代などは研究室あたり平均500万-1000万円位だろうか。このほかに、パーマネントの職員の給与が平均一人550万円くらいか。 給与の一部は税金として地域に還流し、残りは地域で消費されたり金融機関に融資(預金)されたりする。また、年度途中には研究会、 年度末には推進会議や評価会議など各種会議があるので、遠来の客の宿泊費や懇親会費が地元に落ちる。

ある地域では、研究所の統廃合で会議が開かれなくなり、時を同じくして地元のホテルが廃業し、経営者が自殺してしまったことがある。 研究所の統廃合とホテル廃業の因果関係は分からないが。

つまるところ、地域の農業試験場の主たる役割は、雇用を生み出し地域に税金を還流する公共事業に他ならない。もし、「研究成果の提供」 を全くしない研究所があったとして、であるが。私が就職したころは、一研究室あたりの研究費が500万-1000万円かそこら。 職員の賃金は、一研究室2000万円くらい。いくらlabor intensiveな研究が多いからといって、 これではなかなかまともな成果は出るはずもない。現在こそ研究費はそのころの3倍以上、人員は2/3くらいに減っているので、 予算配分比率はかなりまともになってきているとは思うが、所掌業務が一向に減らないのは帰って不思議である。 書く書類の枚数は返って増えている。

さて、非常に卑近な話になってしまったが、結局、私が言いたかったことは、 どこで働くにせよ研究者は自分の仕事のコストパフォーマンスを給料込みで考えて、仕事の成果が社会にどのようにインパクトを与えうるか、 あるいは本当はどのようなインパクトを与えてきたのか、に常に関心を持ってほしいということなのだ。それをしない無自覚な研究者は、 自らどんな自負を持っていようとも、公共事業を行う研究機関という巨大マシーンの税金還流メカニズムの一部に過ぎない。さて、 あなたの研究成果は観測可能?それとも観測不能?

続きを読む "観測可能・観測不能" »

2005年2月14日 (月)

事故渋滞

かれこれ3時間もバスに乗っている。
非常にトホホな状態である。

2005年2月 1日 (火)

あくまでも懸念を見つけ出し批判する新聞社

 核燃料サイクル開発機構の広報部長 久保稔氏と毎日新聞の論説委員長 菊池哲郎氏の往復書簡には、目を見張るものがある。 やり取りは延々と続いているのだが、    特に目を引いたのは毎日新聞社からの平成16年3月22日付けの回答である。    毎日新聞の論説委員長 菊池哲郎氏の書簡にはこのようにある。

 

「新聞ジャーナリズムは根源的に追従的でなく批判的である、そうあらねばならないと考えています。   それが大きな存在理由と心得ているからです。[略]あくまでも懸念を見つけ出し批判します。」

 そうだったのだ。毎日新聞はあくまでも懸念を見つけて批判するのが新聞社の使命と心得ているのだ。しかし、その懸念とは、 具体的なリスクをさすのか、あるいはリスク不安を指すのだろうか?誰がどのように、その判断をするのか。もし後者であるならば、 事実確認をせずに悪戯に騒ぎ立てて騒動を起こすだけではないのか。たとえば、所沢ダイオキシン騒動のように。   

 世人の先に立って警鐘をならすのが社会の木鐸たる新聞社の勤めかもしれない。かも知れないが、 その強大な発言力にはそれなりの責任が伴うのだ。事実誤認に基づいた報道は、明らかに悪である。その責任は誰が負うのか。新聞社においては、 報道することのリスク・ベネフィットと報道しないことのリスク・ベネフィットのバランスシートはあきらかに、 報道することを推進する方向に傾斜している。誤報をしても新聞社はリスクを負わない一方、 日々の紙面をうめるためには記事を生産し続けなくてはならないからだ。限られた紙面で何を伝えるかが重要だという考えもあるが、 不完全な情報を断片的に流して読者に偏向した考えを植え付ける害悪を考えると、無理に書かないという選択はありえないのだろうか。 上記の論説委員長の姿勢は、遺伝子組換え作物を巡る毎日新聞の報道姿勢にも共通しているように思える。

続きを読む "あくまでも懸念を見つけ出し批判する新聞社" »

« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »

twitter

  • Bernard_Domon

Ranking

  • にほんブログ村 科学ブログ 生物学・生物科学へ
    日本ブログ村
無料ブログはココログ