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2004年12月の記事

2004年12月31日 (金)

大晦日

 来年、不惑。
 とはいえ、惑うことばかりです。仕事もまだまだマイペースというには程遠い。さて、どんな一年を迎えることやら。

2004年12月 8日 (水)

予防原則

 環境問題、とりわけ化学物質の規制に関するキーワードに「予防原則」という言葉が使われることがある。
インターネット上でその定義を探してみると、さまざまな使われ方をしているようなので、どのような文脈で使用されているものか、注意が必要である。
1. 歴史的に多様な使われ方をしてきたという現実を踏まえて、用例は示すがあえて定義しない、というケース。
a.(European Commission, 2002 [PDF])"In most cases, measures making it possible to achieve this high level of protection can be determined on a satisfactory scientific basis. However, when there are reasonable grounds for concern that potential hazards may affect the environment or human, animal or plant health, and when at the same time the available data preclude a detailed risk evaluation, the precautionary principle has been politically accepted as a risk management strategy in several fields.
To understand fully the use of the precautionary principle in the European Union, it is necessary to examine the legislative texts, the case law of the Court of Justice and the Court of First Instance, and the policy approaches that have emerged."
(多くの場合、満足すべき科学的な根拠に基づいて決定されうるこの高度の予防は測定によって達成可能である。しかし、潜在的なハザードが環境あるいはヒト、動物あるいは植物の健康に影響するかも知れない合理的な根拠がある場合であって、そして同時に、入手できるデータに詳細なリスク評価に関するものが含まれない場合には、幾つかの分野では予防原則はリスク管理の戦略として政治的に受け入れられてきた。
EUにおける「予防原則」の使われ方を十分に理解するには、法律の文章、法廷と第一審裁判所の判例法そして、発生してきた政策的な取り組みを十分に検討する必要がある。 )
b. 「化学物質のように、何十年という単位で影響が人体、または環境に現れるもので は、原因と被害の因果関係を直ちに、100%明確にすることは不可能に近いです。 しかし、信頼できる研究結果に基づいてその因果関係を、例えば70%証明するこ とはできたとします。これを「科学的に証明されていない」としてその規制を先 延ばしにすれば、将来、状況は取り返しのつかないものになるかもしれません。」( グリーンピース:「予防原則ってなに?」勉強会報告

c. 国際条約や協定における「予防」の現状の取り纏め。(環境省:環境政策における予防的方策・予防原則のあり方に関する研究会報告書
この文書には次の様な興味深い記述があります。「また、いずれの文書も、対策の内容について以下のような原則の必要性を指摘している。 ①比例原則:措置は、望まれる保護水準と均衡したものでなければならず、ゼロリスクを目指すものであってはならない。」

a.b.c.いずれも、「リスク管理」のひとつの手法として、あるハザードに対するリスク評価が十分行われていない場合には、「リスク有」と一定の仮定をおいて対処する考え方を、「予防原則」と呼んでいるようです。

2. 定義しているケース。
a. 「潜在的なリスクが存在しているというしかるべき理由があり、しかしまだ充分に科学的にその証拠や因果関係が提示されない段階であっても、そのリスクを評価して予防的に対策を探ること」(化学物質と予防原則の会: 応用倫理学講義 2環境 セミナー3 リスクの科学と環境倫理(鬼頭秀一116-138)p130 岩波書店)

2.-aでははっきりと、「化学物質に限って考えるなら、ヒトに重大な有害性や不可逆的な有害性を与えると判断できる要素があり、リスクアセスメントが行われた結果、多くの不確実性を含んでいるため、必ずしも科学的に因果関係が証明できないが、予防的に規制した方がよいと判断出来る場合に、「予防原則にもとづいて」、規制を行う、というように用いられる言葉です。」としており、リスク評価を前提としております。

さて、以上の現状から見て「予防原則」についてのコンセンサスが得られそうな考え方とは、「合理的な判断に基づいて潜在的なリスクが想定される場合であって、なおリスク評価が十分に済んでいない場合に、そのリスクを一定の値と仮定して、施策を行う場合あるいは行わない場合のコストと対比する意思決定のルール」といったところでは無いでしょうか。「施策を行う場合あるいは行わない場合のコストと対比する」という点については「施策を行う」とすべきという意見もあるかもしれませんが、「何かを行うことで現状よりも悪くなる」ことも想定するべきだと思います。

しかし、世の中には、ちょっと変わった使い方をする方もいる模様です。
このケースでは、BSEの全頭検査の継続の要求のために予防原則を掲げる一方で
1. 「一方、リスク評価の危険な側面として以下の点が指摘される。」として、リスク評価の実施そのものを否定しておいでのようです。
#危険性を指摘しつつ、リスク評価を肯定しているのかもしれません。読み方が悪かったらごめんなさい。
2. 「「許容できるリスク」を設定することは、リスクを生み出す構造から目をそむけさせ、リスクの存続を許すことになること。」と、ゼロリスクを目標とすることを掲げております。
いずれも、「予防原則」とは相反する考え方です。

なお、「(2)「リスク評価」を行う前に、多数の未解明事項の科学的な解明が先決である」との文言がありますが、この「科学的な解明」のプロセスこそが広い意味でのリスク評価では無いのでしょうか。研究による事実の積み上げなしにリスク評価が行えるとは誰も考えてはいないと思うのですが。

さらに、「現段階では検出限界の月齢を確定する知見が不十分であり、検出限界以下のリスクも不明である、と解するのが自然と思われる。」と言う一方で、「私たちはそこから自ずと、全頭検査の継続という結論が導かれると考える。」という論理的な脈絡が理解できません。検査の有効性を疑いながら、その継続を主張するというのはどういう論理なのでしょうか?
 現行の検査方法の検出感度に問題があって、20ヶ月齢以下の個体では検査の有効性が無い、というのであれば、まず検査法の改善を求めるのが筋ではないでしょうか?検出できない方法でコストをかけるのは無駄です。むしろ、特定危険部位の除去が確実行われているかどうかを検証すること、それを確認する検査方法の開発あるいは、その方法がすでにあるならば、その実施を求めた方が対策として有効だと思います。また、異常プリオンの検出方法自体も改善されてきているので(1,2)、その採用を求めるのも良いかもしれません。

いずれにしても、現状ではvCJDの予防措置は特定危険部位の除去であって、現行の異常プリオンの検出は、リスク評価のデータ蓄積のためのモニタリング手法の一つに過ぎません。本当に消費者のゼロリスクを求めるのであれば、直ちに牛肉の消費を止めるほかありませんが、その際に発生するコストを考えると、それは現実的な選択ではありません。
# しかし、あらゆるものに優先して生命の尊厳を訴えるのであれば、直ちに牛肉の消費を禁止することも選択肢としてはありうるのかもしれません。私には理解できませんが。

2004年12月 3日 (金)

安全神話という幻想

 「安全神話」、誰が発明した言葉か知らないが定義もされないままに重宝に使われている。使用される場面は主に各種の反対運動である。
#ある人が、「安全の神ってどんな神だよ。見てみたいよ。」とのたまわったが、そういう不信心なことを言ってると神罰が下るかもしれませんよ。と、思ってgoogleで調べたら"安全信仰"という言葉も使われているのですね。

 「遺伝子組換え作物」然り、「原発」然り。時には新幹線や、食品衛生、日常生活の安全(治安)についても使われることがある。そのような使われ方をするときには、困ったことに「安全神話」は決まって「崩壊する」ことになっているようだ。
 「安全神話は崩壊した」だから「危険だ」という論調で、何かに対して反対する際の証拠として引き合いに出される。
 しかし、技術者や科学者は、そもそも「安全の神」の信徒ではない。むしろ、物事がいかなる条件においても安全であるという状態、つまり「絶対の安全」などありえないと考えている。したがって、多くの研究者は、どのような要因が、どの程度、安全を脅かす可能性があるか、つまり潜在的なリスクの要因と程度を評価するという観点で研究を行う。その結果、何某かの事故が起こった場合、想定されなかった危険(リスク)が明らかになることがある。人智の及ぶ範囲には限りがあるので、想定外のリスクはおよそあらゆる場面で付きまとうが、だからといって、我々は科学技術の発展(それを進歩あるいは発展と呼ぶならば、だが)を止めることはもはやできないし、できたとしても止めるべきではないと私は考える。
# ガスも水道も電気も無い暮らしを想像できるだろうか? あるいは、畜力にたよった有機農業で在来の品種を栽培して、増え続ける世界人口を支えることができるだろうか? これから電車も車も飛行機も無い社会を目指すべきだろうか?

 我々の日常生活にあふれている科学技術は、それによって享受できる利益(Benefit, ベネフィット)と、それによってもたらされる潜在的な危険の程度(Risk, リスク)の均衡の上に成り立っており、そのバランスは新たな研究成果や技術革新、あるいは市民の監視によって絶えず見直されている。
 その均衡と見直しのプロセスの一部は、あるときは公害、薬害、労働災害やそれに伴う訴訟であり、頻発する交通事故であり、タイタニック号の沈没やジャンボ機の墜落であったり、関東大震災や阪神大震災の火災や建物の倒壊であったりする。これらの顕在化した危険要因(Hazard, ハザード)は、危険の程度・発生の見込み(リスク)とともに、評価されるされるべき性質のものであり、さまざまなケースが考えられる。(こちらの例がわかり易い。) 災害のある部分は防ぎうる人災であり、有る部分は防ぎ得ない天災であると考えられる。人類は、そのような危険要因を克服し、ある時には耐え忍んで科学技術と人間社会とを調和させてきた。
 「安全神話」とその崩壊、というものの見方は、これまで科学技術が絶えずもたらしてきた問題提起とその解決の歴史を無視するものである。「絶対の安全」の追求は、我々の身の回りに常に潜在するリスクから目をそらすことに他ならない。

 我々は、危険要因を直視しなければ、たやすく安心を手に入れることができる。しかし、危険要因と向き合って、その評価(リスク評価)を行わなければ、安全を手に入れることはできないのである。
 私は思う。「安全と安心は別物」という議論の本質は、「安全」は科学的な見地に立てば「ある前提条件の下では、ある程度安全である」としか言い切れないのに対して、「安心」は「知り得ない条件をも含むあらゆる条件下での絶対の安全」を求めるという、科学技術のもつ本質的な限界に対する挑戦にあるのだと。
 最近、「安全・安心」をキーワードとして、遺伝子組換え食品等をめぐって、専門家が消費者と同じ視点で問題を共有するというアプローチをとるリスク・コミュニケーションが行われ始めている。かつては、パブリック・アクセプタンス(PA)活動と称して、専門家が情報を開示して大衆を啓蒙することで、公衆理解(パブリック・アクセプタンス)を得ようとする活動が盛んであった。しかし、公衆理解が得られない理由が情報の欠如ではなく、科学技術に対する公衆の信頼の欠如であることが明らかになるに及んで、かつての啓蒙活動は問題の共有へと変容してきた。そして、その動きは今日も続いている。
 しかし、「安心」が「絶対の安全」の保障を求めるものである限り、科学者は公衆の要求の満たすことはできない。これは、リスク・コミュニケーションに傾けられる努力の質や量に係る問題ではなく、安心の保障を目指すリスク・コミュニケーションの前提が内包する原理的な問題である。
#もちろん、そのリスクコミュニケーションが安心の保障を目指すのでなければ何の問題もないのだが。
 唯ひとつ、公衆理解と「安全」を結びつける方法があるとすれば、人類の歴史上、いまだかつて「絶対の安全」は存在しなかったし、これからも永劫に存在し得ないのだ、リスクには程度があるものだ、と公衆が理解することだろう。つまり、専門家が消費者と同じ視点で問題を共有するのではなく、消費者(公衆)が専門家と同じ視点で問題を共有することだ。そもそも、「安全神話」など幻想に過ぎず、連続した安全性/危険性の程度はあるだけなのだと。

「リスク/ベネフィット」
 昨今の「遺伝子組換え作物」をめぐる問題には、これまでの議論の流れとは別に、その恩恵にあずかる者と、リスクを負う者が異なる、という問題がある。
 「ベネフィットは私のもの。リスクはあなたのもの!」という訳だ。現状では、遺伝子組換え作物は海外から輸入されたものであり、遺伝子組換えによって付与された形質は、除草剤耐性にせよ耐虫性にせよ、生産者には利益をもたらすが、消費者が感じ取れるような実質的な利点は無い。つまり、”アメリカの生態系”にやさしい農作物のために日本の消費者がリスクを負う理由は無い、という構図である。この構造を打ち破る方法は・・・あるにはあるが、私はそれを言いたくない。

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